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古代史の再検討(10ー2)・・・絶対年代の復元

37 推古朝以降の「二倍年暦」
 では、視点を変えて推古朝以降いつまで「二倍年暦」は続いたのか、という問題を検討してみよう。
 先ず明白なのは、『古事記』に記されている推古天皇の崩御年月日は「二倍年暦」表記だという点である。すなわち、少なくとも推古朝までは「二倍年暦」が存在していたことになる。ところが、『古事記』の記述は推古天皇の崩御をもって終了している。したがってそれ以降、すなわち舒明天皇以降は手がかりとなる文献等がなく、不明ということになる。持統天皇以降は普通暦によっているため、厳密には推古天皇と持統天皇の間、すなわち舒明天皇~天武天皇の間に「二倍年暦」は終焉を迎え、「普通暦」に切り替わったことになる。さらに厳密にいうと、推古天皇の実崩御年は西暦660年。『日本書紀』が記す「元嘉暦・儀鳳暦の開始」は690年(持統4年)。つまり、場合によっては689年までは「二倍年暦」が存在していた可能性がある。
 さらに、細かい話になって恐縮だが、「二倍年暦」の基点(「二倍年暦」が終焉して普通年暦に切り替わった年)を690年と仮定すると、推古天皇の推定崩御実年は659年と推計された。
これまでそれを前提に論究を進めてきた。が、その真の崩御実年は660年と判明した現在、実際の実施は2年後方にずれ、692年となる。『日本書紀』が記す「元嘉暦・儀鳳暦の開始」の勅令は持統4年(690年)11月に出されている。年末に近く、同年に切り替わったとは考えにくい。現実に普通年暦に切り替わったのは、一、二年経過した692年ないし693年の年頭からだった、と考えた方が自然といえる。
 なぜ、この問題の追及ないし検討が必要かというとこうだ。持統6年の頃といえば、唐、新羅等海外との人的交流や交易が盛んになりつつあった時期とみてよい。この時期になっても、わが国が依然として独自の「二倍年暦」に依存していたとすれば、非常に不都合だったのではないか、と考えられ、本当に「二倍年暦」に固執していたか否かが疑問視されるからである。
 だが、持統6年頃まで「二倍年暦」が続いていたからこそ、推古天皇の崩御実年は660年だったと知られたわけだ。660年は、『日本書紀』によれば、斉明6年に当てられており、推古天皇から、舒明、皇極、孝徳を経て、斉明天皇に至る4代も後の天皇朝になる。
 すると、少なくとも、舒明、皇極、孝徳、斉明の各天皇朝は「二倍年暦」に当てはめて手前にずらさなければならない。斉明天皇が手前にずれてこれば、次の天智、天武朝も、そして、持統朝さえ持統5年頃まで影響を受けることは必然である。
 結論はこうなる。「二倍年暦」は持統6年まで使用されていた。そう考えないと、推古天皇の真の崩御年が660年であることの説明が出来ない。逆の言い方も可能である。推古天皇の真の崩御年が660年であることは既に詳細に検討したように、確定的といってよい。とすれば、必然的に、「二倍年暦」は持統6年まで使用されていた、ことになるのである。

38 「二倍年暦」から普通暦への切替
 我が国は、旧暦から新暦への切替を、明治時代に経験している。明治5年(1872年)12月2日をもって旧暦は終焉し、翌日に明治6年元旦として新暦がスタートした。現行の太陽暦が始まったのである。むろん、多くの地域や農家、商家等では旧暦も使用され続けた。140年近く経った現在でさえ、暦本には旧暦が併記され、各種の伝統行事や祭礼には旧暦が遺存していること、よく知られているとおりである。
 この明治期の新旧暦の切替の場合、新年の年頭を期して実施されている。このことをを考えると、「二倍年暦」から普通暦(普通の元嘉暦)への切替は、同様に、新年の年頭を期して実施された、と考えられる。少なくとも、そう考えるのが極めて自然である。年の途中で切り替えたのでは期間や季節の算定に苦労する。第一、季節感自体がつかめなくなって混乱が生ずるのは必定である。
 「二倍年暦」から「元嘉暦」への切替は、どのように行われたのか。何の記録も説明も残されていないため、不明としかいいようがない。
 だが、手がかりが全くないかといえば、そうではあるまい。
 第一の手がかりは、今述べたように、切替は新年を期して行われたに相違ない、という点である。
 また、第二の手がかりは、新暦(元嘉暦)のスタートは必然的に、持統7年(693年)と見込まれること。
 そして、これがもっとも重要な手がかりだが、第三は、『日本書紀』が記す推古天皇の崩御年である戊子年(628年)は、実年では庚申年(660年)に当たっている、という点である。
 この三つの手がかりに加えて、もっとも自然な発想として、「二倍年暦」の年干支と普通暦の年干支が一致する時点で切替を行ったに相違ない、とみられることだ。そして、そうすることが自然であり、便利でもある。新暦のスタート時の年干支と「二倍年暦」が続いた場合の年干支が一致していれば、旧暦と新暦相互間で年数を算出するのが非常に容易になる。干支表さえ座右に置いておけば、60年ごとに新旧の年干支は一致するから、年の計算が楽である。通常、年干支の方は新旧全く異なるため、切替の前後しばらくは年数の算出が容易であるに越したことはない。このため、新旧の切替時の年干支は九分九厘一致していたに相違ないと思う。
 もっとも、日付干支の方は連続していて、新旧同一の干支だったため、月日の異なる明治期の切替より混乱は小さかったに相違ない。加えて、「二倍年暦」は、新暦となる元嘉暦そのものをベースにしており、かつ、農作業にかなう、いわば自然暦(前回(9)参照)をもベースにしていたから、明治期の切替ほど混乱は大きくなく、比較的短期間の内に人々に受け入れられたに相違ない。
 さて、以上のような手がかりから、本当に新旧暦の切替が持統7年(693年。692年まで旧暦)だった、などということが確認出来るだろうか。私は、その確認方法を数週間考えてみたが、具体的な方策がなかなか思い浮かばなかった。
 ある日、こんなことは考えていたってしょうがない。無駄作業になってもいいから新旧年干支の対応表を作成してみればいい、と思い立った。推古天皇の崩御年(660年)の「二倍年暦」上の年干支は、戊子年。このときの普通暦たる元嘉暦の年干支は、庚申年。そこで、これを基点として、持統7年(693年)までの新旧年干支の対応表を作成してみることにした。第18表がそれである。
 これを見ると、693年の年干支は、「二倍年暦」も普通暦も、その年干支は癸巳で、一致していた。ある程度予想していたこととはいえ、こうして見事に一致しているのを確認すると、私はほっと胸をなで下ろした。作表作業は無駄ではなかったのである。
 同表は、これが正しければ、今後、古代史関係年表を作成しようとする人々にとって、不可欠の表となるに相違ない。
 そこで、結論。
「二倍年暦」の終焉は692年。普通暦としての元嘉暦のスタートは693年ということになる。このように考えてまちがいあるまい。

39 「二倍年暦」のさらなる疑問
 「二倍年暦」の始期も終期もほぼ明らかに出来たので、めでたしめでたし、といきたいが、事柄はそんなに単純ではない。「二倍年暦」の終焉にはまだ大きな疑問が存在している。
 たとえば、金石文。前回、検討の対象とした法隆寺金堂の釈迦三尊像光背銘に刻まれた、聖徳太子の薨去年月日。壬午年二月廿二日甲戌日。これは明らかに普通年暦表記である。「二倍年暦」ではあり得ない廿二日が表記されているからである。
 これを検討するためには、非常に厄介な問題の解決を迫られる。法隆寺はいつ建立され、釈迦三尊像光背銘はいつ刻まれたか、という問題である。この時期が記紀成立時に近ければ、普通年暦表記されているのも当然。逆に天武朝以前なら、「二倍年暦」と普通年暦が併存していた、という考えを持ち出さない限り、説明がつかない。
 法隆寺の建立時期をめぐっては、いくつもの著作が刊行され、論文の数も多い。とても本稿のような場で論じきることは不可能だ。詳細は機会を得たときに論述することをお約束し、ここでは結論部分だけを述べることとするので了とされたい。
 法隆寺は、天智朝に全焼の憂き目にあっている。『日本書紀』天智9年の条に次のように記されている。
  夏四月、癸卯朔壬申夜半之後 災法隆寺一  屋無餘
 「災法隆寺一屋無餘」とは、むろん、災い(火災)に見舞われ、すべての建造物の一切合切が焼失した、ということである。まさに大火に見舞われたわけで、全境内の樹木や建造物が灰燼に帰した、と考えてよい。
 天智9年は『日本書紀』の紀年では、西暦670年。が、第18表によって実年では681年になることが確認できる。
 一切合切が灰燼に帰したとなれば、その再建に際しては、建造物群はもとより、諸仏諸像等々すべてを新たに建造しなければならない。
 その再建は『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』や平安時代の『七大寺年表』等によって和銅年間と考えられる。和銅年間に再建されたとすれば、記紀の成立時期とほぼ同時期である。釈迦三尊像光背銘に刻まれた聖徳太子の薨去年月日は、『日本書紀』と同様、普通暦によっていることは当然ということになる。
 ところが、原記録では聖徳太子の薨去年月日は「二倍年暦」であったに相違なく、たとえば「壬午年二月癸巳日」などと記されていた。これを『日本書紀』推古紀の著者も光背銘の刻印者も普通暦表記と理解したため、齟齬が生ずることとなった。
 問題は『日本書紀』自身に記されている推古朝以降の記事である。
 「『日本書紀』の紀年は2倍以上に引き延ばされた、いわば造られた紀年だ。したがって信用するにあたらない。」
 こう言ってしまえば身も蓋もない。問題の回避には好都合な主張だ。だが、神話時代につながる初期天皇の時代ならいざ知らず、推古朝以降となると、『日本書紀』成立からみてさほど古い時代ではない。「二倍年暦」が天武朝ないし持統朝まで続いていたとすれば、両朝は『日本書紀』成立時のわずか半世紀前にも満たない時期となる。そんな新しい時代まで、『日本書紀』の編著者が記録類を無視して紀年を造出したとは、とても考えられない。
 事実、推古天皇の崩御年月日や聖徳太子の薨去年月日は、「二倍年暦」表記に気づかなかったものの、年干支、日干支、月名はできるだけ原記録を尊重しようとした姿勢が感じられる。とくに日付干支は動かさないように努めたらしいこと、前々回(8)及び前回(9)の検討で明らかになっている。
 つまり、こうだ。『日本書紀』の編著者は紀年を作為したのではない。逆に原記録をできるだけ尊重しようとしていたのだ。ただ、それが「二倍年暦」表記だったのに、普通年暦と思いこんで処理しようとしたために、齟齬が生じてしまった、と考えられるのである。

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