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古代史の再検討(10ー1)・・・絶対年代の復元

35 途方もない再検討を迫る
 前々回(8)及び前回(9)で明らかにしたように、我が国における「二倍年暦」の具体的な姿と形、いわば「二倍ごよみ」とでも呼称すべきものを明らかにすることができた。
 実に驚くべきことだが、『古事記』と『日本書紀』で、一見大きく異なって見える推古天皇の崩御年月日が、実は全く同じ年月日であることが判明した。同様に、聖徳太子の薨去年月日も『日本書紀』と法隆寺金堂の「釈迦三尊像光背銘」とでは一見大きく異なって見えながら、全く同一年月日であることも判明した。天皇や太子の崩御年月日が全く異なって記録される筈はないので、当然といえばまことに当然な結果であった。
 具体的に結論だけを示すと以下のとおりとなった。
推古天皇崩
 日本書紀:戊子年三月丁未朔癸丑日
 古事記 :戊子年三月十五日癸丑日
 実年月日:西暦660年(庚申年)9月15日

聖徳太子薨
 日本書紀:辛巳年二月五日癸巳日
 光背銘 :壬午年二月廿二日甲戌日
 実年月日:西暦657年(丁巳年)9月8日

 そして、これらは想定した「二倍年暦」にぴったり該当した。「二倍年暦」は元嘉暦に依存した極めてシンプルなものだった。が、ベースになっている元嘉暦は、太陰太陽暦で、大の月と小の月が不規則に置かれ、かつ、19年に7回閏月が置かれる、極めて複雑かつ予測しがたい暦である。その年干支、月朔干支、日干支のことごとくが一致するなど偶然であり得る筈がない。したがって、推古天皇の崩御年月日の合致一例のみで、「二倍年暦」の実体と実存在は確定的と断じてよかろう。加えて、聖徳太子の場合も全く同一の「二倍年暦」で合致をみたのであるから、その存在は疑うべくもない。『古事記』に記された各天皇の崩御年月日はすべて「二倍年暦」によっていると考えられる。それは著者の太安萬侶がその存在に気づいていたことを意味しない。気づいていれば当然そのことを注記したに相違ないからだ。彼は伝承されていた原記録を、そのまま忠実に伝えたに過ぎないのである。
 さて、「二倍年暦」の具体的な形の詳細は本稿の(8)、(9)を見ていただくしかないが、極めて簡略にその概要を述べると、こうである。
a:春の種まき開始期(旧暦2月)と秋の刈り 入れ開始期(旧暦8月)を新年とする、いわ ば「自然暦」とでも称すべき暦である。
b:暦は元嘉暦をそのまま活用し、元嘉暦月の 前半15日と後半15日(ないし小の月の場 合は14日)に各々一ヶ月を充当した。した がって元嘉暦の六ヶ月が「二倍年暦」の一年 (1~12月)となり、元嘉暦の一年が二年 とされた。
c:元嘉暦に閏月が現れた場合は、そのまま2 ヶ月の閏月を置いた。

 これでお分かりのように、「二倍年暦」は極めて複雑、かつ、予測しがたい元嘉暦をベースにしているため、人為的な操作や想定を行って、推古天皇や聖徳太子の異なる崩御年月日を同一年月日に導くことは不可能である。

 以上の理由から私が想定した「二倍年暦」は実存在したに相違ない、と確信するに至っている。
 『古事記』に記された年月日はその「二倍年暦」による表記に間違いない、と私は確信している。もしもそうだとすると、日本の古代史は途方もない再検討を迫られることになる。なにしろ、記紀に記された記録は、基本的にすべて半分に短縮され、これまで出されてきた古代史年表はすべて全面的に書き直さねばならなくなるからである。その対象は単に初期の天皇にとどまらない。なんと、誰もが普通暦表記と信じて疑いもしなかった推古朝、さらに場合によっては天武朝にまでその短縮は及ぶからである。天武朝までとなれば、『日本書紀』30巻中、30巻の持統紀を除くほぼ全巻がその対象に含まれてしまうのである。
 そこで、私は、
「「二倍年暦」の発見は、日本古代史研究史上、未曾有の大発見たり得る」
と記したのだが、決して大袈裟な表現でないことご理解いただけよう。
私が望むのはただ一点を除いてほかに何もない。歴史の真実、ただその一点である。
したがって、私が導き出した「二倍年暦」に代わる真実があって、それを提出する論者があれば、喜んでそれに従うつもりである。痛烈なる批判がなされ、別の真実が明らかにされるなら、真実を求める私にとって、それ以上歓迎すべきことはない・・・。
 だが、日本の古代史に途方もない再検討を迫る前に、詰めて置かなければならない事柄がある。大問題というほどの事柄でないかもしれないが、疑義を残したまま再検討を迫るのはフェアーでない。解明可能か否か不明だが、最低限その努力をなすことが礼儀というものだと私は思っている。

36 「二倍年暦」の起原
 「二倍年暦」をめぐっては疑義も残されている。
その一は、そもそも「二倍年暦」はいつ頃始められたか?、という問題である。
その二は、推古天皇や聖徳太子の例から考えて、推古朝までは「二倍年暦」の存在が確実だとしても、では、それ以降いつまで「二倍年暦」は続いたのか、という問題である。
 先ず、その一から検討してみよう。私たちの前に誰の目にも明白な二つの事実がある。
 一つは「二倍年暦」のベースになっている元嘉暦の成立年代である。元嘉暦は、南朝の宋の元嘉二〇年(443年)に何承天が作った暦であるから、これまでも述べたように、その成立は西暦443年。したがってそれ以前の記録まで二倍暦を遡ることは出来ない。少なくとも元嘉暦べースの「二倍年暦」の上限は西暦443年である。
 二つ目は『古事記』に記載された天皇の崩御年月日である。最古の記載は十代崇神天皇で、「戊寅年十二月」と記されている。次に記載があるのは、十三代成務天皇で、「乙卯年三月十五日」とある。厳密に言えば、崇神天皇は「月」しか記されていないので、普通暦かも知れぬではないか、という主張もあり得よう。その場合は十三代成務天皇が上限ということになる。が、それは屁理屈というものであって、大陸側の使用していた普通暦を使用していながら、後に
「二倍年暦」に変化した、などはあり得ないことなので、崇神天皇をもって「二倍年暦」の最古と考えてよかろう。
 そこで、問題は崇神天皇の崩御年月と元嘉暦成立のいずれが先か、という点に帰着する。これは、「二倍年暦」で遡ってみれば明らかになる。その結果はすでに第5表で示したように、崇神天皇の崩御年は西暦504年。元嘉暦成立の西暦443年よりも60年ほど後代である。すなわち、「二倍年暦」は崇神天皇の時代には存在し得たことになる。
 なお、「二倍年暦」そのものは『三國志』「魏志倭人伝」に記載されている有名な注記が知られている。
  魏略曰「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為      年紀」 
 これにより、「二倍年暦」は三世紀、場合によってはもっと以前から使用されていた可能性がある。もとより、そのような古代での使用は、元嘉暦べースの「二倍年暦」である筈もないけれど・・・。「其俗不知正歳四節」という表現からすると、当時は単に年齢だけ二倍で数えるにとどまっていたかも知れない。
 以上、いずれにしろ、「二倍年暦」の使用は相当古くまで遡りうるのである

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