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古代史の再検討(4-2)・・・絶対年代の復元

11 五王の検証(第2の検証)
 さて、いよいよ第2の検証を行うときがやってきた。第5表に復元された実質年代に照らして倭の五王がだれなのかを検証するときが訪れたのだ。
 先ず、倭の五王の記述年代を第9表に抜き書きしてみよう。
 年代が飛び飛びではっきりしない面があるが、はっきりしているのは次の点だ。
●五王の年代:421~502年の80年余
●武の在位年代:477~502年の25年余

 私は、江田船山古墳と稲荷山古墳の鉄剣銘文から割り出した「ワカタケル大王」が十代崇神天皇その人であることをすでに検証した。
その年代は、持統6年(690年)を起点として復元された「実年代推計」(第5表)のB案にぴったりであることが分かっている。崇神天皇以前に年代が算出できる天皇は崇神天皇ただ一人である。それ以前は『古事記』に崩御年が全く記されていないからだ。
 B案によれば、崇神天皇の崩御年は西暦504年。倭の五王の内、この年代に在世していたのは武と呼ばれた王をおいて他になく、五王最後の王である。
 つまりこうだ。中国史書に記された倭王武の候補者たりうる王は第5表B案に従う限り、たった一人しかいない。崇神天皇その人だ。問題は、この候補者が中国史書に記された武に相応しい人物か否かである。加えて在位年代も合致していなければならない。
 先ず在位年代から検討しよう。『日本書紀』によれば崇神天皇の在位は68年間である。二倍年暦なら34年間ということになる。もっとも、『日本書紀』は年代そのものを引き延ばしており、在位年数の上限は34年と考えなければならない。なお、いわずもがなだが、武の定説となっている雄略天皇の場合、先述したように、同じ『日本書紀』の在位年数で同じ2倍年暦換算だと上限はたった12年にしかならない。
 他方、中国史書からうかがわれる武の在位年代は最低でも25年(477~502年)になる。B案に従えば、崇神天皇は504年崩御である。崩御年まで在位していたとすれば、27年(477~504年)の在位が最低ということになる。上限が34年、下限が27年。
 武にかかわる中国側の記述は477~502年の25年にわたっている。年代からいっても在位年数からいっても、崇神天皇と倭王武は気味が悪いくらいぴったり重なっている。
 そればかりではない。もっと驚くべき符合がある。
さきに、私は王に冠せられる武という称号は特別な意味を古代中国ではもっていたことを示した。古代中国で武(王・帝)は7人もの多きにわたっている。そして、そのことごとくが覇者ないし建国者であった。この意味での王者は近畿王朝ではよく知られているようにたった二人しかいない。神武天皇と崇神天皇の二人である。共に「ハツクニシラススメラミコト」(初めて国を治められた天皇という意味)と呼ばれている。『古事記』に記された33人もの天皇中たった二人しか該当しない。まさに武王と特称するに相応しい(すなわち建国の王そのものの)存在なのである。
 神武天皇と崇神天皇では崇神天皇の方がより武王と特称されるに相応しい存在だ。神武天皇は、大和の国の王にとってかわったが、支配権は大和にほぼ極限されている。これに対し、崇神天皇は大和から北陸道、東海道、西海道、丹波方面の四方面に各々討伐のために将軍(いわゆる四道将軍)を発するなど、建国の祖と呼ばれるに相応しい勢力の大拡大を敢行している。王の中の王、大王と呼ばれるに相応しい人物なのである。ときの中国の天子順帝が、崇神天皇を武と呼び、使持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍・倭王に任命したのも故ないことではなさそうなのである。
 これまで、中国側が倭王の一人を武と称したことについては何の検討もなされてこなかった。が、崇神天皇を漫然と武と称したのではなく、崇神天皇こそ武と呼ぶに相応しい王者と考えての命名たった可能性が高いのである。『日本書紀』に記された在位年数(二倍暦)も人物像も武にぴったりのうえ、『宋書』記述の在世年代と第5表B案の在世期がぴったり合致している。崇神天皇をおいて他に武が考えられるだろうか。
 もっとも、これまで武は自称とする見方が多い。自称ならなおさら建国者と自ら意識していた可能性が高いといえよう。

12 天皇と五王の対応
すでに繰り返し述べたように、第5表は単純に『古事記』の崩御干支を遡って二倍年暦換算しただけの表であって、何ら加工の手を加えていない。記紀に建国者の存在が明記されている。また「ワカタケル」は、日本の古い金石文である稲荷山鉄剣銘と江田船山鉄剣銘に大王と記されている。『常陸国風土記』も関東まで進出していたと明記している。さらに中国側の史書に
記された倭王武の在位年と在世期がぴったり一
致している。これだけ数多くのバラバラの史料が記す年代や王者像が見事に崇神天皇に一致している。こんなことが偶然に一致し得るだろうか。これを疑う人はこれ以上多くの数々の史料を提出して反証する義務を負うことになる。
こうして、第5表にかかる第2の検証は終了を迎えた。ここでも持統6年(690年)を起点として復元されたB案の年代が正鵠を射ていることが確認される。第1の検証に続き第2の検証も無事通過と断じてよいだろう。となれば、十代崇神天皇が西暦500年頃の人物であることは確定的だ。というよりそうだと断定するほかない。従来西暦500年よりも100年以上も前の天皇と信じられてきた崇神天皇がその実504年まで在世していたとはまことに驚くべき帰結だ。が、「ワカタケル」、「シキノミヤ」、「倭王武」「502年に在世」といった数々の符合がある以上、この帰結は動かしようがない。
起点となる武が崇神天皇で確定的となれば、武に先立つ倭王、讃、珍、済、興は崇神天皇に先立つ諸天皇に相違ない。そればかりか系図はもとよりその存在自体が疑われてきた十代崇神天皇以前の、いわゆる伝説上の天皇のことごとくが実在天皇であることも確定的と考えなければならなくなる。加えて中国側史書の記述によって、その生存年代、さらにはその系図の一部さえ復元可能になるのである。
 ここに伝説的古代天皇と倭の五王との対応を示すと以下のようになると考えられる。
 在位年数は『宋書』等の記述から確認できる最低年限だが、珍と済の間は5年空いている。このため、珍と済の間にもう一代倭王が在位していた可能性を残している。そうなると天皇は一代ズレてくることになる。済以降は変わらないが、讃から済は次表のようになる。
このあたりは新史料でも発見されない限り、どちらとも確定できない。が、いずれにせよ伝説的存在とされてきた古代天皇群が実在天皇として生き生きとよみがえってくる気持ちに襲われる。が、その思いは私だけの思いであろうか。実年代復元に伴って見えてきた大きな収穫のひとつといっていいと思うのである。
 しかも検証はこれで終わらない。
 次回の検証は『日本書紀』継体紀に記された奇怪な記事「日本の天皇、皇太子、皇子皆死去」の謎を取り上げ、吟味してみたい。


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