今日は朝から蒸し暑い。
もちろんクーラーはかけているが、庭の植木達に水をやるだけで、もうグッタリしてしまった。
さぁ、今日の晩御飯はどうしよう?
朝から考えた。
でも何のアイデアも浮かばない、笑。
私は昨日から体調が悪くて食欲もない。
長いこと料理の献立を考えていると、私の頭にふと
姑の顔が浮かんだ。
姑、とは言ったものの、私は離婚してしまっているので、もう姑ではなくなってしまったのだが、何と呼んだら良いのか分からないので、以下、姑、と書くことにする。
私の中では料理、と言えば姑、なのである。
とにかく料理が上手で、暖かく出すメインの品以外は午前中から作っていた。
本当に主婦の鏡のような人だった。
綺麗好きで、台所の流しにコップ一つ、洗わずに置かれている所を見た事がない。
私が元主人と結婚し、娘を妊娠するまでは毎週2〜3回、晩御飯をご馳走になり、
週末もまた、一緒に外食を楽しんだ。
考えたら、ほとんど毎日である、笑
私は恵まれた嫁で、食べた食器を下げた事くらいはあるが、皿洗いしたり、何かお料理を作ったり、というようなお手伝いをした記憶が全くない。
姑がしなくてよい、といつも私を止めるのだ。
きっと大部分の方は、「それは反対の意味だ、
無理やりにでも手伝うのが常識!そんな言葉を真に受けたのか?」と思うだろう。笑
だが姑は、私に洗い物をさせないために、そして気を遣わせないように、「私は自分の決まったやり方があるから、自分でやらないとスッキリしないのよ。だから置いておいてくれる方が嬉しいの。」と私に言った。
また、私は元主人と学生、それも中学生の頃から知り合いで、いつも家に出入りをしていたので、普通の嫁姑関係にはならなかったのである。
姑はいつでも本当の娘のようにのびのびさせてくれた。
パジャマのような家着で家の中をウロウロさせてくれ、料理が出来上がると、「〇〇ちゃん、ご飯よ〜。」と呼んでくれた。
年月が経ち、私が娘を妊娠し、少しつわりの症状が出た時期があった。
そんな時、姑は、40センチ正方形くらいの大きい、料亭が作るような仕出し弁当を入れる塗り箱に、10数種類のおかずをチョコチョコと見栄えよく入れ、
仕事帰りの元夫に毎日持たせてくれるのだった。
そのクオリティは本当に料亭並みだった。
私が「もうツワリは治りました。大丈夫です。」
というまで約2か月、毎日毎日、お弁当を作ってくれた。
私のツワリなんて、ちょっと気持ち悪いくらいで、1度もドラマのように洗面所で嘔吐したことすらないのに、笑
後に私が夫と不仲になってきた頃も、そして離婚するまでも、いや、離婚してからもしばらくは一緒にご飯を食べたものだ。
姑は外食も大好きだったので、しょっ中外食も共にした。
今日はそんな姑の手料理が急に思い出され、頭の中に私の好きだったメニューが浮かんだ。
エビがたくさん入ったピラフや、手で握ったとは思えないほど綺麗な三角のひじきの入ったおにぎり、
鮭おにぎり、ジャガイモがホクホクのグラタン、りんごを擦り入れて何日も炊き込んだカレー、里芋とベーコンの煮物、玉ねぎの甘味が溶けこんだ豚汁、ラザニア、キッシュ、和風、洋風、イタリアンを織り交ぜた様々な料理が思い出された。
しかしそんな手料理で私を甘やかし続けてくれた優しい姑は、その暖かかった家にはもういないのだ。
姑は今、ある施設に入居している。
姑のいない家はひっそりとして、いつも電気のついていた台所には誰もいない。
目を閉じるといつも台所にいた姑が目に浮かぶようだ。
姑は離婚した後も「〇〇ちゃん、元気?」と電話をくれた。
そして年月が過ぎ、寂しくなった時はいつも私に電話をして来て、近況を語った。
私はいつも孫娘である娘の話をして、元気のない姑の気分を盛り上げてから、電話を終えるのだった。
私は今、猛烈に、もう一度で良いからあの家で姑の作る手料理を食べてみたい、と思った。
家を守り、主婦として生きてきた姑の晩年はとても寂しいものになってしまった。
私は胸が潰れそうになった。
理由は色々あるとは言え、縁あって姑となった人の晩年を幸せなものに出来なかった自分が情けなくて、涙が出そうになった。
お義母さんに今、とても会いたい。