※新書などを読んで学んだことを整理したり、記録しておいたり、若干思ったことなどを書いています。日記のようなものです。
※間違ってることもあるかもしれません。鵜呑みにしないでね.....
※あくまで日記のようなものなのでご容赦ください。

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最近、また新たに

『中世史講義➀』(岩波新書)

を読み直してるんですが、自分はなんて浅はかな知識だったんだろうかと.....()

初歩的な部分から学び直すのは大事だなと思いました。

さて、中世期が始まる前の時代から見ていくと

興味深い記述がありました。

・貞観14(872)年の疫病流行

渤海の使者が入朝したことによる「異国の毒気」が原因とされ、京都近郊で御霊会が開かれた


↑これ、最近の状況とちょっと似てますよね()


渤海の使者が毒気という名のウイルスか何かを持っていたかはさておき、


疫病の流行→御霊会などの神仏に頼るというこのスタイルが令和まで継続されてるのが凄いぞ、日本。


余談はここまでにしておいて、中世社会の始まりとも言うべき土地制度の変遷について、私がよく分かってないのでまとめてみることとしました。


【9〜10世紀頃の日本】

・律令制の土地制度(戸籍による班田収授)では朝廷の税収がうまくいかない(むしろ無理)

朝廷は税収や軍事の権限を国司に大幅に譲り(国司請負)、権限の大きくなった国司は国衙のトップである受領として土地支配

『受領』=国司交代の際に勘解由状を「受領」したことによる呼称

(受領になる国司はだいたい国司の位の中でも上位にある国守である場合が多かった)


【少し戻って89世紀】

・荷駄運送に関わっていた者や郡司の関係者、土着の国司が、蓄積した富によって墾田開発や開墾した田畑の経営をする

百姓へ出挙(高利貸しつけ)してさらに富を蓄えて「富豪の輩(ともがら)」と言われる


・受領は富豪の輩の活動を牽制しつつ農地経営者(田堵)と見るようになる(多くの土地を経営する田堵は大名田堵)

・大名田堵たちは国司に仕えており、寄人と呼ばれた。また、国司から官物や雑役などの租税を課されていた

・土地開発は大名田堵が行っていたが、山を切り拓いたのは修験者である(四国のお遍路さん的なやつかと、、、)


【安和の変がある頃(10世紀末)】

・諸国の受領争いもそんなにないので莫大な富を抱える(平兼盛の記述によれば「国を拝する者その楽あまりあり」)

大名田堵を使って公領の支配を行った

・郡・郷・保・名の徴税単位を設ける

・それに合わせ郡司・郷司・保司・名主がその土地経営そういう土地が権門(権威の高い家、この時代では貴族階級と思われ)に寄せられる

→寄進地系荘園の誕生

受領は荘園に寛容になり権力者に媚びるように.....

・寄進を受けた者のうち、荘園領主を『領家』、最上位の荘園領主を『本家』という。本家が権門的な感じかな.....

税搾取が酷い時代へ(尾張国郡司百姓等解)

(いつの時代も日本の百姓たちは強い)


(実は少し関係があるらしい)

【女流歌人などの宮廷文化の花開く時代】

8、9世紀に女性の教養が高まった理由

受領になった文人や歌人がその地位や富を利用して自分の娘を宮中に出仕させた、またはそのような女房を自分の妻としたから

(そういえば清少納言や紫式部のお父さんたちも受領階級だったな)

そんな先駆けとなる作品『蜻蛉日記』(藤原倫寧女/右大将道綱母)

.....なげきつつ ひとりぬる夜の あくるまは いかに久しき ものとかはしる.....

(↑なげきイカ🦑で覚えました笑)

百人一首の歌でお馴染みのあの方が書いた日記ですね。

実は道綱母と兄の妻が清少納言の姉で、道綱母の妹の子供が菅原孝標女(『更級日記』作者)なんですって。

親戚同士で後世まで残る優れた文学作品を残しているとは.....(笑)


とはいえ、叔母と姪で作品の内容が180度違うのも面白いですね🤣


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最後全く関係ない話で終わってしまった(笑)


ちょいちょいwiki情報を見て後付けしてって感じなので.....本当に自分用です(こんなのを公開していいんだろうか)


まあ公開した方が勉強のモチベが上がるかなって感じなので.....ご容赦ください🙇‍♂️🙏