肯定本能 テソン#3
 
私は
肯定ウイルスでありたい
 
 
 
友人は人生の預金通帳と同じだ
 
 中学の頃だけとってみても、私はスンリと似たような性格を持っていた。「スンリと似たような性格だったら一体どんな?」と心配している方がいるだろう。それはまさにどんなことでも恐れたりためらったりするよりは「私が出来ないなんてことがあるのか?」と考えて、ひとまず挑戦してみるスタイルのことだ。
 とにかく行ってとりあえず‘挑戦した’ということに意義があって、可能性があるならと無条件にぶつかっていく性格だった。そして通じなかったなら、未練なくあきらめるすべも知った。ところが声帯結節のあと「私も出来ないことがあるんだね、足りないことだらけの人だな」と考えて、事あるごとさらに慎重になった。
 
 そうしているうちに少しずつ性格が内向的に変わったようだ。苦しいことがあっても家族はもちろんのことメンバーたちにまでも、悩みをはっきりと口には出さない。そのせいで時折心細い思いにもなることもある。私に必要なのはおいしい食べ物でも、素敵な風景、いい服でもなくただ古くから私を知っている気楽な友人たちだ。
 
 練習生の頃は私が抱く夢を追いかけるために友人たちを気にかける暇も、友人たちに会う心の余裕もなかった。私のそんな姿が友人たちの立場からは「芸能人への準備をしたから心が変わってしまった奴」と見られたようだ。互いに連絡の回数が減り始めるとついに連絡が途絶えてしまった。友人たちはやはり派手に変わった私の姿を見て「昔のカン・デソンではないじゃないか」と思って連絡が出来なかったという。そうしてお互い相手が先に連絡をしてくれるだろうといいながら1年が過ぎてしまった。
 
喉の渇いた人が井戸を掘るのか、待つことに疲れた私が先に電話をかけた。1年ぶりの通話にどんなにそわそわしたか、片思いするガールフレンドに初めて電話をかける心情はこんなだろうかと思った。友人たちにさえ今の私が少し特別に見えるものだったのなら、彼らが負担になる前に私が先にするべきだった。忙しくて無我夢中だという言い訳でいいかげんにするには、私にとって彼らの意味はあまりにも大きい。
 
 忘れられて久しくなることぐらい悲しい事はないだろう。与えられる分だけ受け取れば、特に友人たちとの友情の銀行につくっておいた預金通帳と同じで無限の信頼には信頼という利息を戻す。「友人を持つという事はもう一つの人生を持つ事と同じだ」という言葉がある。このなんて素晴らしい言葉なのか!私のまた別の人生がその光を失わないで、いつどこででもキラキラ輝いていたらいいだろうね。
 
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