『違和感』という記事の中で、

『テレビ』と『SNS』で、批判の仕方が異なると書いた


『テレビ』では、『行動』

『SNS』では、過去の行動言動を踏まえた『存在』



今まで生きて思うこと


自己啓発本や偉大な人達の言葉や生き方が書いてある本を沢山読んできた


参考になるものは『私の生き方』に落とし込もう


「なかなかしっくりこない」の繰り返し


ブログを書きはじめ、身体の中の『想い』と今まで消化されてなかった記憶を文章にする事で、思考の自由度が高まった感じがしている


より『正直』に書く、が自由度を上げる



ここで、自分や他者を批判し、ペナルティを与える行為について考えてみる


自分の中で会話が始まった




『『存在』よりは『行動』に基づいてペナルティを与えるべきではないか』


「『存在』で批判されるとキツイよね」



『自分に対して、どんな感じでペナルティを与えていたっけ?』


「完璧からの減点法、勝手に自分で心理面から追い詰めていた」



『あれ?何で自分にペナルティを与えてるんだっけ?』


「幸せというか、より良く生きるため」



『今、そうなってる?』


「なってる面もあるんじゃない

ただ、幸せになるためという『大前提』を忘れてない?」



『確かに、幸せになるためという『大前提』は忘れてた

上手くいかないと、ペナルティを与えて安心というか、自分を律してるというか』


「幸せになりたいとか、なってもいいとか、そういう『大前提』を忘れてたら、人生楽しくないでしょ?」



『環境に合わせて、より良く生きる事を目標にして結構良い感じで過ごせてはいると思ってる

ただ、幸せにはブレーキを踏んでいるような

楽しいとペナルティがセットと言うか』


「幸せそうな人をどう思ってた?」



『羨ましいというか、その自信の源泉みたいなものは何か気になっていた』


「批判に負けない位、自分に自信が持てれば、幸せを求め始めるの?

誰か批判するの?勝手に不幸せな人を選んでない?不幸せな人の中で、よりマシな生き方を選んでるにすぎないのでは?」



『確かに、幸せになってもよい人を『自ら』放棄してた

それよりも組織の秩序とか自分の犠牲精神みたいな大事なものがあるはずと思ってた

もっと正直でいいのかもしれない』


「批判やペナルティを追求し過ぎると、視野が狭くなってしまう

『大前提』である自分や周りの幸せを考えて、一歩引いて批判する」




『私』はいつの間にか、『不幸な人』という枠の中で生きてきたのかもしれない



ただの『不幸な人』ではなく、『幸せ』を求めてるフリをした不正直で不誠実な『不幸な人』



『私』の中で『ペナルティ』とセットとなっているものを洗い出してみる


「贅沢」とか「カロリー」とか「高級」とか「タクシー」とか


貧乏臭くて嫌になる




安易に『幸せ』を目指さない

ただ、『不幸せ』の枠の中で動き回らない

ちょっとだけ、視点や思考をズラしたり上げ下げしてみる