ザウバー・C13 (1994年)     

               設計は、アンドレ・デ・コルタンツとレオ・レス。


以前にもご紹介させていただきましたとおり、アンドレ・デ・コルタンツは徹底した秘密主義でしられ、 空気の流れが見えると本人は豪語する「奇人」であり、奇抜なデザインと流麗なデザインを得意とする。なので?その独特なマシンは、ル・マン24時間レースや世界ラリー選手権(WRC)で多くの勝利を収めた。


チーム名も「ブローカー・ザウバー・メルセデス」として出発したが、スポンサーの契約不履行により「ザウバー・メルセデス」に変更。同郷スイスの企業であるスウォッチ・グループがスポンサーになり、マシンにティソのスポンサーロゴが描かれた。


カッコイイだろぉ~

kjgpのブログ
腕時計がデザインされているんだぜぇ~       ワイルドだろぉ~kjgpのブログ

ミニチャンプス製 1/43scale


第6戦カナダGPでは、F1参戦200戦を迎えたアンドレア・デ・チェザリスを祝うスペシャルカラーリングで出走した。

ドライバーは前年から継続参戦するカール・ヴェンドリンガーと、ベネトンへ移籍したJ.J.レートの後任としてハインツ=ハラルド・フレンツェンがF1デビューを果たした。フレンツェンはメルセデス・ジュニアチームでの英才教育を受けており、ミハエル・シューマッハ、ヴェンドリンガーとともに「メルセデスの若手三羽烏」がF1に揃い踏みした。

フレンツェンはデビューレースのブラジルグランプリでいきなり予選5番手につけ周囲に衝撃を与えるも、決勝ではリタイアした。第15戦日本GPでは全日本F3000時代に走りなれた鈴鹿サーキットで予選3位を獲得(決勝は6位)。最終的には4度の入賞を果たし、チームのエースに成長する。

チームメイトのヴェンドリンガーも開幕戦で6位、第3戦サンマリノグランプリで4位と3戦中2戦で入賞。波に乗ったかに見えたが、第4戦モナコグランプリのフリー走行中にヌーベルシケインでクラッシュして意識不明の重体に陥り、一生意識が戻らないとも言われた。奇跡的に一命は取り留め、数週間後に意識も戻ったが、残りのシーズンすべてを欠場することとなった。ヴェンドリンガーの代役として第6戦~第14戦はアンドレア・デ・チェザリス、残りの2戦はJ.J.レートが起用された。チェザリスは6位入賞が1度で残りのレース全てでリタイア。レートもノーポイントに終わり、獲得ポイントは前年に並んだものの、ランキングは1つ下の8位となった。

ヴェンドリンガーがクラッシュした際、ドライバーの頭部が剥き出し状態であった事が重傷を負った原因とチームが独自に判断したこともあり、翌第6戦からコックピットの両脇に頭部の安全を守る「サイドプロテクター」を装着するようになった。

この「サイドプロテクター」は1996年からレギュレーションに採用され、現在では全てのフォーミュラカーに採用が義務づけられるようになっている。