こんにちは!長谷川です。
今日もご覧下さりありがとうございます。
当たり前のように人材育成なんて言いますがそもそも人材育成なんてできるものなんでしょうか?
いつからか僕は人材育成なんてできないんじゃないかと考えるようになりました。
いきなり人に例えると難しいので植物を考えてみます。
家の庭で植物を育てたいと考えたとします。
少々背が高くなるような木でもいいし草花でもいい。
まずはじめに「それがここで育ったらこうなるだろうな」とイメージしていると思います。
そのイメージがあるからその木や草花を選んだはずです。
雑誌でも見かけたのかもしれないし、どこかのお宅に咲いているものを見たのかもしれない。
そうしてまずはじめにすることは土作りです。
植物を植えたいところをいくらか耕しそこに腐葉土や肥料を混ぜて土を作りますよね。
もちろん日当たりが良い場所を選ぶでしょうし適度な気温も考慮することでしょう。
そうして土作りをしてそこに種を蒔く。
もしくは苗生を植える。
その後は適量の水をやる。
最初はこんな感じでしょうか。
その後は天候などを考慮しながら定期的に水や肥料をやり、周囲に生えてくる雑草を取り除く。
あまりに日差しが強いようなら影を作り、風が強い日には支えになるものを付けてやったり風よけをしてやる。
こういう日々が過ぎてゆくにつれ次第に植物は成長しやがて花を咲かせる。
広く大きく成長するものもあれば小さくても力強いものもある。
世話をしていても残念なことに途中で枯れてしまうものもあるかもしれない。
害虫にやられるものも出てくる。
この後は次の世代を生み出すための種を作ってやがて一生を終えていくことになるわけですよね。
さて簡単にこうして植物を育てる過程を考えてみると一つ気がつくことがあります。
それは育てていると考えている”私”は、実は育つための環境を準備し整えているだけに過ぎないということ。
それに太陽の光や雨など私以外の力の恩恵を受け助けられているということ。
植物が様々な助けを受けながら自らの力で成長しているということ。
育てていると言えばまるで自分が作り出しているかのような錯覚をしてしまうけれど実はそうではないのですね。
これは人を育てる、人材育成にも全く同じように当てはまることではなかと考えています。
人が育つための環境を準備し整え、外部の力も借りながら、自らの力で育つ。
それを私目線で見た時に人は「人を育てている」と言うだけのことであって本質は決してそうではないということ。
そんなふうに僕は思います。
いつまでも私目線で見ている、つまり「人を育てている」という目線で見続けると育っている人を見て不平や不満が生まれやすくなります。
思うように育っていない、と。
そういう目線で見て不平や不満を言うようになると育つための環境を整えてあげるという大事な仕事が見えなくなります。
どうすればよく育つようになるのだろうか?
不足しているものはないだろうか?
というプラスの思考も働きにくくなる。
そればかりか思うように育っていないことを対象の人が悪い、つまりその人の責任だとも考えるようになります。
こうなるともう育つ環境には本当に目が向きにくくなりますね。
大手企業なら育つ力の強い人だけを選んで育つ力の弱い人を切り捨てるようなやり方もできるかもしれません。
その場合は育てる力、つまり環境を準備し整える力はあまり重要ではないかもしれません。
しかし小さな会社、中小企業の場合はなにかのご縁で入社してくれた人を大事に、できることなら一人も欠けることなく成長してくれることが望ましい。
そう考えると小さな会社、中小企業には大手企業よりも環境を準備し整える力を求められるのかもしれません。
小さな会社や中小企業では限界が見えやすいということがあります。
環境を準備し整えることは簡単ではないこともあるでしょう。
だけれど将来にきれいな花を咲かせてほしいと願うならば限界まで環境を準備し整えることをあきらめずにしてほしい。
そして一人ひとりをよく見て、特徴を掴み、誰もがきれいな花を咲かせることができるように手助けしてほしい。
そう思います。
そうそう、人は種の状態で入ってくるわけではないですね。
苗の状態で入ってきます。
ということはずっと育ちやすいということですね。
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