2026年元旦、中日新聞の記事「対話はタイパじゃない」(劇作家 平田オリザ さん)から一部伐採

 

世の中がうまく回っているとき、対話はあまり重視されない。社会の成長が止まり停滞が始まると、抱え込んだ重荷をどう分配すべきか、合意形成が必要になってくる。

対話と会話は混同されがちだが、会話が単なるおしゃべりであるのに対し、対話は相手との違いを大切にし、価値観を擦り合わせていく営みだ。

意見を押し通し、相手を説得するようなディベート(討論)とも異なり、自分の価値観が変化する可能性に対して開かれた構えが要求される。

 

また、こんな表題に目を引かれた。

 

「人と違うのは当たり前。同意しなくても理解に努めることが必要」

 

同意しなくていい、それよりも今はただ聴くこと。

相手の価値観を理性で理解しようとすること。

無理に納得しなくてもいい。納得には感情が絡むから。

納得できないのは自分の意思や過去がある証拠だから。

湧いてくる怒りや共感など感情は意識して別のハコに入れておく。無理に葬り去ろうとしない。

 

書きながらある人物たちの顔が浮かんだ。

youtubeで見かける「ひろゆきさん」、タレントの太田光さん。

私が彼らと対話するとしたら、どうだろう?どうも苦手だ。

早口で主張する言葉を聞く前に、彼らに対する私の嫌悪感が邪魔をする。だから話の内容は入ってこない。早く終わらないかな、と初めから否定している。

 

これでは「対話」にならない。

だから、このとき感情は別のハコに入れておくことにした。

理性で話を聞くことにした。そして私も私の考えを伝えてみる。

 

 

結論は出なくていい。

対話をすることが目的だから。

 

結論が出ないことは生産性が低いかもしれない。

話し合っても無駄だったという気持ちになるかもしれない。

これまでやってきたこと。考えてきたことが無駄だったと思うかもしれない。

 

それでも誰かと対話することが必要だと思う。

対話などせず、一人一人の多様性に目をつぶった方が短期的に成果を上げやすい。それは歴史が証明している。でも今からは急ぎ成果を求めない。

 

成長の時代は様々な問題に目をつぶっていた。水面は華やかで綺麗なモノでキラキラしているが、水底にはヘドロのような問題が徐々に溜まっていた。それでも気づかぬふりをして成長を求めてきた。それがコロナ感染で搔きまわされ、世の中の汚れが一気に浮かび上がってきた。

 

それでも汚れは悪ではないと思う。

暮らしていれば私の部屋の中にもほこりは溜まる。それと同じだ。ほこりも私の一部だ。

 

部屋だけでなく、誰でも心の中に汚れを持ち自分で抱えながら生きている。でもその汚れが異臭を放ってきたとしたら、今からはその汚れを除く行動を起こしたい。

それは「対話」から始まる。

 

時間は掛かるが、私は掃除機ではなく旧来のほうきを使いたい。

今度はゆっくり丁寧に、ここには「タイパ」という言葉はない。

 

 

そしてもうひとつ、大切なことがある。

価値観は自分で創った身体を縛る鎖のようなもの

自分の価値観は対話によって変化する可能性を秘めている。