法然上人の、一見矛盾に感じる深い境地

 

「安心なんてないさ」というほんとの安心

 

に裏打ちされた言葉を引用させていただきます。



往生を期せん人は決定の信をとりて、

しかもあひはげむべきなり
(一言芳談131より)


一念十念に往生をすといへばとて、念佛を疎相に申ば、信が行をさまたぐるなり。念々不捨者といへばとて、一念十念を不定におもふは、行が信をさまたぐるなり。信をば一念に生まると取りて、行をば一形にはげむべし。又一念を不定に思ふは、念々の念佛ごとに不信の念佛になるなり。
(一言芳談26並びに法然上人行状画図法語より)






法然上人はこの境地に至るまでに、

尋常ならざる辛苦の道のりを歩んでる。



御法語(法然上人行状画図)より引用させていただきます。

おほよそ佛教おほしといへども、所詮戒定慧の三学をばすぎず。所請小乗の戒定慧、大乗の戒定慧、顕教の戒定慧、密教の戒定慧也。
しかるに、わがこの身は、戒行にをひて、一戒をもたもたず。禅定にをいて、一もこれをえず。
人師釈して、尸羅清浄ならざれば三味現前せずといへり。
凡夫の心は、物にしたがひてうつりやすし、たとへば猿猴の枝に、つたふがごとし。まことに散乱して、動じやすく、一心しづまりがたし。無漏の正智、なにゝよりてかおこらんや。
若無漏の智劒なくば、いかでか、悪行煩悩のきづなをたゝんや。悪業煩悩のきづなをたゝずば、なんぞ生死繋縛の身を、解脱することをえんや。
かなしきかな、かなしきかな、いかゞせん、いかゞせん。

こゝに我等如きは、すでに戒定慧の三学の器にあらず。
この三学のほかに、我心に相応する法門ありや。我身に堪たる修行やあると、よろづの智者にもとめ、諸々の学者に、とふらひしに、をしふるに人もなく、しめすに輩もなし。
然間なげきなげき、教蔵にいり、かなしみかなしみ、聖教にむかひて、手づからみづから、ひらき見しに、善導和尚の勧経の疏の、一心専念彌陀名号行住坐臥不問時節久近念念不捨者是名正宗之業順彼佛願故。といふ文を見得てのち、我等がごとくの、無智の身は偏にこの文をあふぎ、もはらこのことはりをたのみて、念々不捨の称名を修して、決定往生の業因に備べし、
たゞ善導の遺教を信ずるのみにあらず、又あつく彌陀の弘願に順ぜり。順彼佛願故の文、ふかく魂にそみ、心にとどめたるなり。

(引用終。強調は私です)








 不出世の天才法然上人が、また親鸞聖人が、またそもそも開祖ゴータマ・ブッダが命がけ必死の求道によってはじめて覚醒している。

 

 

 

 

 以上のことを踏まえると、

法然上人の到達した深い境地を、もっともよく伝える次の言葉が、もはや矛盾に感じず理解できるとおもう。

現代語私訳で引用させていただきます。

 

 法然上人は、
「ああ、今度こそ浄土にいきたいなあ」
といつも言っていた。

不安になった弟子が
「あなたほどの人がそんな程度では、わたしたちはどうしたらいいんですか」
と訊いた。

上人は笑って
「ほんとに浄土にいくまでは、この気持ちが消えるわけないさ」

 

《原文》
つねの御詞に云、あはれこの度しおほせばやなと、その時乗願房申さく、上人だにも斯樣に不定げなる仰せの候はんには、ましてその余の人はいかが候ふべきと。その時上人うちわらひて、のたまはく、蓮台にのらんまでは、いかでかこの思ひはたえ候ふべき、云々。
(一言芳談117。引用終。強調は私です)



上人うちわらひてというところがすばらしい。

安心できないことに悩む弟子と、
(安心できないから良いんだと気づけよおまえ)と破顔する上人。
法然上人の境涯が弟子のとはまるっきり違うことがわかります。

 

 

 

この、一言芳談117に記録された

信心安心が定まらないと悩む弟子(乗願房)の問に、

正解を自らの存在で示現する法然

 

同じ構造が、歎異抄第9条に記録されてます。

 

信心安心が定まらないと悩む弟子(唯円房)の問に、

正解を自らの存在で示現する親鸞(親鸞は、より説明的だ)

 

第九条を引用させていただきます。
 念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養の浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと云々。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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