この世界は、「いい人だから」といって、必ずしも報われる訳ではない。


“いい人”は損をすることも、往々にしてある。




宇宙は「良い悪い」つまり「いい人かどうか?」で判断しない。



その人の“確信的なエネルギー”にのみ反応する。




「私なんかどうせ無理」

「そんなことは叶うわけがない」


「こうなったらいいなぁ」と願う一方で、願うことによって、不満や不足を強化している。




“確信している人”は、「こうなったらいいなぁ」とは言わない。



「こうする」


だから、そこに向かってエネルギーが流れていく。




私は今まで、成長だとか変容だとか、高次元のエネルギーだとか引き寄せだとか。


目に見えないものを求めて、“願って”いた。



確かに、“昔の私”とは随分違う人間になったように感じるし、ずいぶん生きやすくもなった。




でも、何か一つ、抜け出しきれない感覚。




「変わった」とはいえ、結局のところ、同じ“フィールド”の中でぐるぐるしていただけだったのだ。




それを“現実”とも呼ぶし、“自我の檻”とも呼ぶし

、“逆さまの世界”とも呼ぶ。




私は、変わったつもり、分かったつもり、見えたつもりになっていた。


でも、自分が生きている“フィールド”は何ひとつ変わってはいなかった。



それはグラデーションのような曖昧なものではなく、しっかりと境界線があり、0か100か、「抜けたか抜けていないか」なのだ。




私は、「お金がたくさん欲しい」と思いながら、その大きなエネルギーが流れてくることを「怖い」と感じている。



未知の怖さ。



だから、そのエネルギーを避けている。




例えば「宝くじが当たって欲しい」と願う一方で、正直なところ「そんな事が私に起こるわけがない」と思い込んでいる。



これがブレーキとアクセルを同時に踏んでいる状態なんだ、と気づいた。





私は何を求めているのか、全く分からなくなってしまった。




猫と過ごす穏やかな時間。

ある程度やりがいのある仕事。


そこまで時間に縛られない生活。



望んでいたことは、そこそこ叶っている。




私は「お金が欲しい」と思いながら、それで何をしたいのかが、明確になっていない。


月々の支払いに悩みながらも、「このまま一生を終えるのかもしれない」とどこかで思っている。




アイデアを形にしたいと思いながらも、「お金が手に入れば」という条件をつけていて、そのクセ「お金を手に入れる」ということに強い意志を持っていないのだから…



それは傍から見れば、そして宇宙から見れば、「そもそも叶えるつもりがない」ように見える。



それじゃあ叶うはずがない。





私の魂は何を望むのか?何をしたいのか?




学びたい。




お金について、社会の仕組みについて。

法律や歴史ついても、もっと知りたい。



それを生かす?何かのために?



それは二の次だ。




ただ、自分の欲求を満たすため。




そう、私はただただ「自分のため」に学びたい。




そして、そのために、時間とお金が必要。


だから「お金が欲しい」




私は今まで、“書く”ことが好きで、「書くために」知識を得たいのだと思い込んでいたが、「書きたい」というのは、二次的な欲求だった。


「人に伝えるため」ではなく、このブログのように「自分が忘れないように記録しておく」ための行為。




今思うと、カウンセリング心理学も、ナイトワークも、その「学びの一つ」に過ぎない。



今、「カウンセリングで稼ぎたい」と思えないのは、誰かのためや、お金を稼ぐためではなく、「自分の欲求を満たすため」に学んでいたから。



ただただ、自分の為に学ぶ。深堀りする。理解する。




人間は「何のために」と、理由づけしたがる生き物だ。


そして結果を見て、自分の選択が正しかった・間違っていたと採点する。




本来は、やりたいことに理由なんていらない。



結果だってどうでもいい。

自分が満足しさえすればいいんだから。