昨日のメッセージの続きです。

ゲームオーバーの話から発展しました(笑)


よろしければどうぞ昇天






安心して。


“ゲームオーバー”のタイミングは、あらかじめ決まっている。



たとえそれが“自死”という最期でも、その「自死に至るまでの苦しみ、怖さを感じる」それがその人にとって必要な経験、それが今回の“ゲーム”だったのだ。



ただそれだけのこと。



自死は「悪いもの」として嘆かれることが多いが、長生きをしたとして、パートナーや友人に先立たれ、ひとり“死への恐れ”を長年感じ続けるのと、どちらが苦しいだろうか?



死への恐怖。



それは、慢性的に長く感じ続けるのか、短く強烈に感じるのか、ただそれだけの違いでしかない。



それも設定の一つに過ぎない。




ただただ、たくさんの人生、たくさんのゲームを楽しんで、人それぞれあらゆる体験をしているに過ぎない。



「今回のゲームがどうだったか?」それだけを評価しても意味がないことなのだ。




今回きりという“錯覚”があるからこそ、今の人生に集中して生きる。



“生”に執着する。


“死”を恐れる。




今回の人生への評価は、ゲームオーバーになってからすればいいのだ。




VRのゴーグルをつけてゲームをしているのを想像してほしい。


自分はあたかも“その世界”にいて、実際に“それ”を体験しているように感じるだろう。



この世界もそれと同じなのだ。




あたかも、それを経験しているように感じる。




だが、そのゴーグルを外したら、それは幻想だったと気づく。



ゴーグルをつけていない者からすると、それはただのゲームであり、“面白そう”に見える。


「自分も体験してみたい」と思うだろう。




それが“私達”が体験していることなのだ。




そしてVRと同じように、この世界は幻想。



別の世界へ行きたければ、瞬時に別の世界へ移動することもできるのだ。



ただ、この世界では、“タイムラグ”が発生する。


だから、すぐに移動できないと感じるだろう。




タイムラグも、このゲームを楽しむための“要素”に過ぎない。




高い波動でいても何も変わらないからと、“それ”を手放してしまう。


諦めの波動を出した途端に、また諦めの世界線へ戻ってしまうのだ。



現実(幻想)で見えることは、あまり関係ない。



ただただ、自分がどの波動で過ごすのか、そこだけに意識を向ける。