今朝のメッセージです。
よろしければどうぞ
流されず、腐らず。
人は人、自分は自分。
周りがどうであれ、そんな中でも自分の芯をしっかりと持ち、凛と佇む。
野の花のように、ただその“役割”を全うする。
野の花は、摘まれたり踏まれたとしても、それを恨むことも、嘆くこともない。
自分の美しさを誇示するわけでも、“誰か”のために咲くわけでもない。
ただそこで、“あるがまま”を受け入れる。
「私は花とは違う、感情がある」そう思うかもしれない。
その感情や思考こそが、“ありのまま”を受け入れる邪魔をするのだ。
“流される”ことと“委ねる”ことは違う。
“受け入れる”ことと“流される”ことも違う。
周りの環境が悪いから、土地が悪いから「私は綺麗に咲けないのだ」それが“流される”、“腐る”ということ。
ありのままを受け入れるというのは、迎合することとは違う。
「ただそうである」ということを、高い視座で理解する。
例えば、「それを私は受け入れられない」と思うのなら、その“受け入れられない”ということを認め、受け入れるのだ。
人間は移動することができる。
自分で咲く場所を選択することができる。
この“受け入れる”ことと“選択する”ことには、矛盾があるように感じるだろう。
“矛盾”、それすらも受け入れる。
「どうなっているんだろう?」と理解しようとするのではなく、「ただそうである」と丸ごと受け入れるのだ。
人は、“自分”が選択したように感じるかもしれないが、それも“大きな流れ”の一つに過ぎない。
自由意志が、“ある”ようで“ない”のだ。
自分が決められるのは、「どんな波動を発するのか」ただそれだけだ。
そこを決めれば、自ずと物事や環境は変わっていく。
自分という“花”を咲かせる、ただそれだけなのだ。
そこには“良い”も“悪い”もない。
“正しい”も“間違い”もない。
ただ「私が私である」それだけでいいのだ。
でも人は、「私が私である」ということを忘れて、他人の目を気にして流され、苦しむ。
人と違う花だっていいじゃないか。
人と違うタイミングで咲いたっていいじゃないか。
今、苦しんでいるのなら、それも必要な“糧”なのだ。
この“地球”では、苦しいこと辛いことが“糧”となる。
肥料がなければ花は咲くことができない。
全ては、花を咲かせるための肥料なのだ。
早く花を咲かせたい?
花が咲くタイミングは、あらかじめ決まっている。
遅すぎず早すぎず、ベストなタイミングでそれは訪れる。
だが、咲いた花はずっと咲き続けることはできない。
「花が咲いたら散る」それもまた自然の摂理なのだ。
そして、世代をつなぐ。
苦しみはネガティブのように見えて、成長のための“糧”。
ポジティブな要素である。
そこには“ネガティブ”も“ポジティブ”もないのだ。
ただ、“そうである”。
その“矛盾”ごと受け入れる。
この世界は「そういうものだ」と認める。
そして良いも悪いもないのだから、不安や恐れる必要もないのだ。
不安や恐れを手放す、そして委ねる。
何が起こってもいい。
何が起こっても、「自分に必要なことだ」と受け入れる。
それがうまく委ねられている証拠だ。
他人のエネルギーに感化されない。
流されない。
私は、私。
強く根を張る。
強く根を張ることができなければ、高く伸びることもできない。
すぐに流されてしまう。
「高く伸びること」が高い波動を発することだとすると、「強く根を張る」方向は、重く暗い波動だ。
重い波動を嫌って避けていると、しっかりと根を張ることはできない。
“低く、重い波動”を知ってこその、“高く、軽い波動”なのだ。
この世界は、“パラドックス”で出来ている。
“ある一つの側面”だけを見ていては、全てを理解することはできない。