「なんだか行き詰まった」と感じる時、仏壇や神社で「ヒントを下さい」とお願いしている。



仏壇や神社に向けても意味が無いことは分かっているけど、“あちら側”と繋がりやすくなる、“媒介”のようにも感じるのだ。



最近も仏壇に向かってそうお願いしたら、「個であり全である」というメッセージが入ってきた。



「頭では分かってるけどさぁ…」と思っていたら、長々と解説してくれたので、慌てて音声メモに残した(笑)


今回は、それを文字に起こしただけの記事昇天






「個であり全である」




“個”の意識が強いから、“全体”の意識が分からない。


全ては個であり、全体(ひとつ)である。



「分離している」と感じるのは、もともと一つだった記憶があるから。


その安心感や温かさを無意識に求める。




「全て一つである」という感覚は、個の意識を超越しないと感じることができない。


分離している、“私”が「一人である」というのは、個の意識が作り上げた錯覚に過ぎない。




高次からのメッセージ、サポートを“受け取る”というのは、分離しているからこそ「相手から受け取る」という認識なのだ。


本当に一つだと理解していれば、“受け取る”というのは、少しおかしな表現になってくる。



そもそも一つなので“思い出す”という感覚の方が近い。



「察してよ」とか、「理解しあえない」みたいな感覚は、“元々一つだった記憶”があるからこそ感じる感情であって、みんな潜在的に一つだった記憶を強く持っているから、孤独や絶望を感じる。




“私”という意識は本当に存在しているんだろうか?




“個”の領域で波動を高めても限界がある。



“私”に起きたことは、周りにとってどんな影響があるのか、相手にとってどんな影響があるのか?


そこに目を向けてみるといい。



そうしていくうちに、自分は“全”であるという感覚が分かるようになるはず。




「お父さんのメッセージが分かる」というのは、どこか別の場所から発せられている言葉を受け取っているのではない。


自分の内側から聞こえてくるはずだ。



それが“繋がっている”というよりも、“一つ”だという感覚。



同化している。



自分であって、自分でないような感覚。


それが「個であり、全である」状態。




「自分に近いお父さんやご先祖様だからメッセージを受け取れる」と思っているが、これは周波数、波動の領域の問題であって、血縁とかそういうものは全く関係がない。



現に会ったこともない人の意識が入ってきたことがあるだろう。


それが個であり、全である証拠だ。




自分に起こる出来事は、自分が決めてきたこと。


誰か別の存在が用意したものではなく、自分が考えて、用意したもの。



「天に委ねる」というのは、誰か自分とは別の“高次の存在”にお任せしている感覚かもしれないが、それはすなわち、「自分でもある」ということ。


私たちは個であり、全であるのだから、そこに“分離”は存在しない。




こうして1人1人体を持って、“別の人間”として認識するように、この世は作られている。


だから分離している、分かり合えない、混じり合えない、一つになれない、という感覚を味わうように設計されている。



ただそれだけのこと。




“目に見えること”は大した問題ではない。


天の導き、ご縁、運、そういったものは元々、自分が設定してきたものだ。



自分であり、全である。


そこで決めてきたもの。


だから、「天の導き」とも言えるし、「自分がそう決めてきた」とも言える。




誰か“別の人間”に憧れる必要もない。


それぞれが各々、別々のことを体験して、持ち帰るようにできているから。


その“憧れの対象”が体験していることは、自分には体験する必要のないこと。



自分が体験していることも、他の人が体験するとは限らない。


みんな同じことを体験していたら、それこそ意味がないのだから。




立場の違い、能力の違いを嘆く必要は全くない。


その“嘆く”ということも、自分が設定したきたことにすぎない。



それよりも、そこから何を受け取り、何を得るのか?




波動を高くするために、食べ物やタバコを気にしているが、「高くしよう」とそうしても意味はなくて、「高くなったら自然とそうなる」というだけ。



それが良いとか悪いとか、そういう問題では無い。


必要なら、今の自分や“その人”は必要としているのだ。


ただそれだけのこと。




「自分がどう感じるのか」を分かった上で、周りへの影響にも意識を向ける。



コントロールは必要ない。



全ての人、全ての物事がうまく繋がっていることを知るだけでいい。


そうすると、より深く「個であり全である」を理解出来るだろう。




無駄なことは、ひとつもない。



ああすればよかった、こうすればよかったと後悔するというのは、そこからきちんと学びを得ていないから。


モヤモヤが残る、それが後悔としてずっと心に引っかかる。



“今ここ”の捉え方を変えることで、過去のモヤモヤや後悔したことから学びを得る。


それは無くなるものではない。


時間軸も存在しないのだから。




今が変われば、過去も変わるし、これから起こることも変わってくる。



様々なパターンがいくつも用意されていて、その時の自分の選択、それが全て。



世界が変わる。


“パラレルワールド”というのは、それのこと。




今、こうしてメッセージを受け取っている最中、自分のようで、自分ではない感覚を感じているはず。


それが個であり、全であるという感覚だ。



そして、すごく気分がいいものだろう。



分離ではなく、繋がっているという感覚。安心感。


「恐れる必要がない」という潜在的な感覚。


「全ての物事は全てうまくいくようにしかなっていない」ということを、潜在的に分かっている状態。



この世に生きながら、“あちら側”の感覚を共有している。



そしてこれは“自我”の考えたことではないから、すぐに忘れてしまう。