年間第27主日のミサに与りました



聖書と典礼は

ミサ前の週に ぼちぼち目を通しています。


机に置いて 表題チラ見とか

該当聖書箇所を読みながら


黙想したりします。


最近、心が ざわついている事が多くて

(そんな時にこそ必要なんですが)


そんな時間も持てずにいましたが

父も退院して、一区切りついた気分となり



やっと静かな時間を過ごすことができました。


こちらは



所属教会ではないのですが

実家から近いので

何度かミサに与っています。


初めて異なる教会でのミサを体験した時は

新鮮で、


同じ式次第でありながら、

雰囲気がこれほど異なるか?

と、驚きました。



私の所属する教会で

多くの外国人が参加していますが、


ミサは日本語のみで行われており、

(特別な場合を除き)


外国人がいないかのように

感じることが多いです。


聖書の朗読や共同祈願は、

当番に当たった人が外国人の場合には


その母国語で行われますが、

全体の流れは日本語なので。。



一方、今日の教会では、


さまざまな母国語で主の祈りが捧げられ、


スパニッシュ、中国語、ポルトガル語、

韓国語、英語、


さらに


たった一人の参加者のためにも

未知の言語(どこの国かわからなかったんです)



でも祈りが捧げられたことに

大変感銘を受けました。



神父の姿からも愛を感じました。


赤ちゃんに手をかざす様子や、

信者と親しく交わる姿は


温かい雰囲気を醸し出していました。



ミサの始まる前には、


ロザリオの祈りが静かな雰囲気の中で


捧げられており、

心を落ち着ける時間でした。



その祈りが終わると、


控え室から祭壇に向かう神父が



式服に着替えながら

忙しそうに行き来する姿の

せわしさ加減が フツウすぎて 笑


和んでしまう。


このような光景は、

全てが整然と狂いなく執り行われる

所属教会では

決して見ることができないもの

でした。


なかなか面白いものです。


この体験を通して、



典礼と聖書の表題から

神の意図をについて 思い巡らせました。


「人は一人でいるのは良くない」として助け手を創った神(創世記2:18)


今日のミサでは、


異なる言葉や文化を背景とする人々が

会する中


一つの祈りを通じて


結びついていました。


その様子を、


人間が孤立せず、助け合い、

共に生きることの大切さを

教えてくれるものとして


見る事ができました。


教会って

神の愛と人々の繋がりが

光沢よく



見つけられる場所なんだなぁ。