10月になり



日曜日に入院中の父のところに

行くので



日曜日のミサは実家と病院の間にある教会で与る事が多くなりました😊



小さくて愛らしい教会です。






さて、最近の気づき について。



私は長い間、

ある人から受けたことで

心に傷を抱えていました。


その人は外から見ると尊敬される人でしたが、具体的には書けませんが、そのことは長年私にとって悲しみの種でした。


その出来事から何年も経ち、

今ではその人の影響を全く受けていないので、


もう忘れてもいい、

もしかしたらその人も反省しているかも

しれない、


私は許すべきだとずっと思っていました。


しかし、心の中ではその問題は解決せず、


許しがなければ本当の解決にはならないと考えていました。



ところが、

最近になって気づいたことがあります。


その人がしたことは確かに良くないものでしたが、私自身も同じような欠点や過ちを持っていることに気づいたのです。



誰も落ち度のない人間はいません。

その意味では、私もその人と同じです。


過去に受けた傷やトラウマを、何とかして解決したいと感じていたその心の重みは、

私にとって

とても大きなもので


「許す」ということに縛られ、  

許すことができない事に葛藤していたとおもいます。



しかし、「許す」という解決に囚われる必要はないと気づきました。


私とその人は同じ人間であり、

完璧ではない存在です。

私もその人も同じように

弱さや過ちを抱えて生きているのだと、自然に感じられるようになりました。


これはただ「許す」こととは

違っていました。


もっと深い理解と共感に基づくもので、

自分自身への寛容さにも繋がるものだと感じています。



もっと深刻な葛藤を経験している方からしたら

何を今更?

と 思われるかもしれませんが、、


この気づきを得たことで、

過去に対する感情が変わり



少し豊かな自分になれた気分です。


 

ちょうど

心に響く御言葉がありました。


コロサイの信徒への手紙3-12-13

「だから、神に選ばれ、聖なるもの、愛されているものとして、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。

互いに忍耐しあい誰かが他の人の人に不満を抱く事があっても、赦しあいなさい。

主があなた方を赦して下さったように、

あなた方もそうしなさい。」




これを読んだときに、

私は聖書を読んでるようで

読んでなかったなぁと思いました。


許すと赦すの

違いですよね。


「許す」は日常的な許可や受け入れに近くて


何なら上からですね、

許してあげるみたいな?


ちょっと恩着せがましい匂いすら感じます😅



それに対して、「赦す」の方は


精神的な受け入れを指しているようです。



慈しみ、柔和、寛容といった優しさや共感を大切にする姿勢を促しているように思います。




相手と自分が共に不完全な存在として

互いに忍耐し合い、理解し合うという柔らかいメッセージが含まれていたんですね。




このみことばを大切にしよう😊