いつも私の記事をお読み頂き、本当に有難うございます。

 

今回は人間関係を悪くしてしまうそもそもの土台である偏見についてを他観と主観に置き換えて書いてみます。

 

 

自己中心的と言うのは、つまり主観的思考しか持っていない人の事を差しますね。

 

しかし、自己中心的は駄目だと言う事はありません、世間では「あいつは自己中(ジコチュー)だからよくない」という表現をしたりあまりよくないイメージを持たれがちですが。

 

そもそもその偏見こそが自己中心的観点だったりもします。

 

世界は多様化され様々な【考え方】がこの日本にも入ってきており日々新しい思考が生まれています。

 

人間として人々と上手く生きていくためにはこの主観(しゅかん)と他観(たかん)を理解し両方を見ていかなければなりません。

 

人によってどうでもいい事が異なり、どうでもいいのに拘ったり、どうでもよくない事をどうでもいいと考える人がいますね。

 

この良いと悪いと言うのも殆どの人が他人の価値観によって左右させています。

 

「〇〇さんが言ったから」と教わる事は様々ですがそもそもの問題が狭いコミュニティーから情報を得てそれだけを信じてしまう人間特有の心理性質から成り立っているわけです。

 

この偏見を緩和させるのが「学び」や「経験」なのですが、人の意見を聞き参考として考えるのが妥当ですが、偏見をもつ事で相手を否定したり批判したりしてしまいます。

 

自分の感情をコントロール出来るか否か。

 

我慢できるか出来ないかという事は「大人だから」とか「子供だから」とかの問題ではありません。

 

 

主観(しゅかん)とは

 

主に自分から見た【物事の見え方】【自分の感情】のことです。

例えば好きな食べ物が目の前にあって、その物を「大好きな物!」と認識するのが主観。

そして通常では自分の姿が見えない、自分の肉眼で見えている風景そのものも主観といいます。

自己中心的な考え方や見え方とはこの主観の事を差しますので誰にでも自己中心的な部分は存在すると言う事になりますね。

 

 

他観(たかん)とは

 

自分の考え方ではない、もしくは自分が見ている風景ではない部分を差し【他人の感情】も含みます。

人から助言を貰ったり、意見を聞く理由は自分にはない考え方や見え方を理解する為ですね。

 


主観・他観での問題点

人間社会で現在最も懸念されている部分はこのコミュニケーションだと考えるのは私以外にも大勢いるかと思います。

自宅付近での近所付き合いや、学校での友達付き合い、職場での人間関係など、世界中にどこにでも人間はいるのにコミュニケーションが苦手だと考える日本人は少なくありません。

 

勿論、自分のプライバシーを保持するのも大切ですが現代の考え方では他観が欠落し過ぎているのではないでしょうか。

 

それは今までに生まれ育った環境や教わったものによる事が大きく出ているのでしょう。

 

家でテレビゲームばかりしている子供は対話する相手は機械ですから感情はありません、機械はプログラミングされた通りに動くようになっているので他観など存在しません。

 

社会に出て社会人になってもある程度の人間関係はあるかもしれませんが従来の仕事の倫理観は「兵士を教育する」考え方を応用した考え方になりますので他観を得る事は少ないです。

 

個性や独創が許されない環境の中で【相手の気持ちになれ】【相手の事を思いやれ】と言われても理解不能になってしまうのは当然の事です。

 

 

どちらも重要だしどちらも重要ではない。

では、どちらが重要なのか?という事なのですがこれはどちらも重要です、よく相談にこられる方が聞かれる事なのですが「どうすれば正しいのでしょうか?」というセリフです。

 

この世界には実際、正しいも間違いも存在しません。正しい・間違い、が存在しないと言う事を理解するにも主観と他観が重要なのです。

 

例えば「片思いの女性が居ます」という考え方でもこれは主観のみの考え方となります。この【片思い】という考え方は自分が勝手に抱いている感情なわけですから相手の感情は全く無視された状態と言えるるでしょう。

 

大好きなその女性を自分へ関心を向けたい場合どうすればいいのかを考えるわけですが、他観を知らなければどうする事も出来ません。

もしかしたら片思いではなく、多少なりとも相手は自分へ好意があるかもしれませんし主観的思考ばかりに考えが偏ってしまうと自己中心的な行動になってしまうので結果的に実る恋も実らなく終わってしまったりとなってしまうわけです。

 

これは恋愛だけでなく人間関係そのものにありますので主観・他観失くして人間関係は構築できません。

 

 

人工の7割以上は偏見。

日本には既に1億7000万人以上の人々が暮らしています、時代と共にこの人口数は変動し災害や疫病などによっても減少したりしますがこの7割り以上の人々が偏見で生きています。

 

日本以外でも同じ人間だと言うのに肌の色が違うだけで論議が広がる世界もある。気にすれば気にするほどに相対的な意識が広がってしまいます。

 

何でも正しいと間違いを決めようと考える姿勢も間違ってはいませんが時にその考え方が自分を苦しめる事もあるのはこの記事を読んでいるあなたも痛く理解できるでしょう。

 

そもそも正誤を決めようとする姿勢そのものが偏見という形になって返って来ているからですね、今ではその間をとってグレーゾーンという言葉を使ったりもしますがまだまだ浸透していない考え方なのかもしれません。

 

では、飼い犬に例えて考えてみましょう。

 

自分の家の前に犬の糞が落ちていたとします。これを聞くと誰もが非常識だ!と批判する事でしょう、しかしそうでしょうか?私はそうは考えません。

 

「こんな飼い主がいるからペットのイメージが悪くなる」勿論そうだと思いますが犬嫌いの人からすればどちらにせよ犬に対してのイメージが悪いので落ちていようがいまいが一貫としてイメージは悪いでしょう。

全て偏見の巣窟ですね。。。。

 

糞を放置した飼い主がその行いをする理由としてはせいぜい【面倒だから】【世話の方法を知らない】【他人の事はどうでもいい】といったところではないでしょうか。

 

家の前に糞を放置されるのは誰しもが嫌な気持ちにさせられるかもしれません、糞を放置されるのがどうしても嫌なのなら「なんて飼い主だ!」と言っているだけではなく、対策を考え家の前に貼り紙を貼ってみたり時間を改め飼い主本人と接触してみるのが有効的な方法です。

しかしここでコミュニケーションが苦手だと考える人はその行動に移る事はありませんよね。それに主観的思考の持ち主であれば感情的に飼い主に話すので関係が余計にこじれてしまったりもしてしまいます。

 

目の前に見えてしまった犬の糞を主観的にみるのではなく他観的に見ればなんの嫌な感情も起こさず処理してしまえばそれで済む話です。

放置されないようにするには飼い主へのコンタクトや教養が必要になってくるので時間と労力が数倍に膨れ上がるでしょう。

人間とは面白い生き物ではないでしょうか。

 

飼い主が悪いと言ったり犬が悪いといったり、はたまたそれを見ている人が悪いと言ったりします。

 

犬も生物ですから人間と同じように排泄物がどうなるかくらい勿論だれにでもわかるでしょう、飼い主のマナーも考えてもらわなければならない部分ではあります、だからと言って飼い主全員がそのマナーを守れる倫理観を持っているのか?となると抽象度は大きくなります。

 

マナーを守れない人間は排除されるべき存在と主張する人もまた別の所でマナーを守れない人の可能性も高いわけです。

 

マナーを守れないのなら犬なんて飼うなと言えば捨てられた犬が保健所で殺処分されるのは可哀そうだと言い、そして可哀そうだと言うわりには自分たちはその犬を保護出来ないと言い、結果的には「仕方ないよね」という答えに行きたつかもしれません。

 

ですがそれが正しいのか間違いなのかは何処にも存在しません。ようは人類皆どっちもどっちという事になります。

 

因みに私の自宅では他人が飼う犬の糞が月に数回放置されていますが私が処理をしています、勿論しない時もありますが通行人が誤って踏んでしまうと嫌な気分になるだろうという考えで処理を行っているので私自身の気持ちがどうなるとかはありません。

 

たまたまその現場に居合わせた場合、その飼い主とお話はしてみたいとは思っていますが。

 

この出来事で「これは記事に使えるんじゃないか?!」という事で使わせていただきました。

 

意図してこの行いを行っている場合はまた別の論理になりますが。

 

 

まとめ?

 

 

さて、結局なところ誰かに嫌な気持ちにされたり、相手の機嫌をそこねたりと日々忙しく感情が錯綜しているわけですが。

他愛もない事が大問題に発展してしまうのは互いが主観と他観を認識出来ていないからです。

 

相手が無知だからそうなると考える人も少なくはないでしょうが、それなら相手に学んで貰えるようにしたり自分の知識を伝える事だって出来ます。

 

「○○な気分にさせられた」というのは主観的な感想であって相手の行動が問題だとは限りませんし、自分自身が誰かを嫌いになれば相手も嫌いな気持ちになります。

 

人間関係で負の感情が発生するのは偏見があるからです。

 

自分自身に主観が足らないのか、それとも他観が足らないのかを考えてみてみましょう。

 

良い人生、幸せな人生、これらを作っていくには主観だけでも駄目だし他観だけでも成り立つ事は難しいからです。

 

特に気を付けるべき点は「普通は〇〇だろ」や「常識ってのは○○」というような自分の正しいと考える基準は他人にも正しいと限らないという事を思い出すタイミングです。

 

普通じゃないと思える行動はその人にとっては普通だったりします。

 

何にでもフタをしてしまう偏見、つまり強い主観的思考は自ずと自分を苦しめている場合が多いという事に気付きましょう。