まず、きちんと認識しなければいけないのは、怒りは破壊行為でしかないと言うことだ。

 

怒りと言っても怒りの要因は様々だろう、しかしどんな方向から見ても怒りとは破壊行為でしかない、これを理解していない。もしくは理解しようとしない人が多いのも事実だろう。

 

本質的な怒りの要因は「何かの責任にしている」からだろう。

 

暴力反対!と訴える人もまたある意味の暴力者でもある、結局な所、言葉では何とでもいえてしまうのが難しいところである。

 

自身が怒っているかどうかは正直なところ自身しか理解出来ない。

 

見た目が怒った顔をしていても内なる意識が冷静で本当は怒っているフリをしている者は怒りではなく、怒りと言う表現を使って相手に自分の意図を訴えたり教育をしたりする行為であり、それは叱りと言う。

 

しかし叱りは笑いながらでも出来る。

 

この微妙な境界線を殆どの人は理解出来ていないのだろう。

 

 

押さえつけても無意味。

 

よく言われるのは「この人は大人だ。」と言う意味の中で怒らないと言う感情のコントロールを含む意味でも使われる。

 

しかし、一般的には本質的なところを捉えて使われている事があまりに少ないだろう。

 

一般的な考え方では単純に怒らないのが大人のようなイメージで捉えられているが真実はそうではない。

 

直ぐに見た目で判断してしまいがちだが、そのような判断や評価をしたところでまるで意味が無い。

 

見た目が怒っていないからと言っても本人が怒りを秘めているかどうかは本人しか解らないからだ。

 

怒っているのに怒っていないフリをしてもそれはまだ理性が残っていたり制御出来ているように思うかもしれないが実際は「自分で自分を押さえつけている」だけであり怒りが無いと言う事ではない。これは「怒っていない」とは言い難い。

 

それに自分の感情をコントロールせずに押さえつけてばかりいてはストレス・フラストレーションが溜まる一方であり、言い方を変えれば自分で自ら時限爆弾をコツコツと作り上げているようなものだ。

 

溜まっていると言う感覚は人それぞれかもしれないが日々そのような行動をしている人はいつかは爆発するだろう。

 

その場合このようになる。

「あの人はそんな人じゃなかったはずだ」「魔が差した」「最近の様子がおかしい」

 

自覚意識が少ない人はこれすらも理解出来ず、自分がイライラする原因や怒りっぽくなっている自分に気が付かない。だからこそ危険と言える。

 

最終的には怒りを開放し破壊行為に移るだろう。

 

これは他人から見て理解不能な行動となる場合も多い、そもそも理解不能と考える者も人を見る目が乏しいと言う事になってしまう。

 

 

恐怖は目に見えない。

 

人間は「解らない事」に恐怖する、それは言うまでもないだろうが、目の前が真っ暗闇の空間で恐怖無く歩いたり走ったり出来るだろうか?

 

全く見知らぬ土地で目隠しをされ歩けと言われても怖くて歩けないのが殆どだろう。

 

これは周りに何があるのかが解らないし近くに危険が迫っているかどうかも「解らない」からだ。

 

 

仮に実験を行うと伝えられ目隠しした場合には歩ける場合もある。これは「実験だから身の危険がないだろう」と言う安心感や保証・自己解釈と言う知識や認知があるため恐怖を緩和して歩く行動が出来るだけである。

 

もし暗闇の空間が使い慣れた自宅の玄関からスタートした場合、ある程度「知っている」わけだから手探りで歩く事が出来る。

 

知っていると知らないとではこれほどまでに恐怖感が変わって来る。

 

これは知識に置き換えても同じ事で。知らない事が多いと恐怖が増えるわけだ。

「無知は罪」という言葉はここから来ているのだろう。

 

実用的な思考で言えば車を運転していて一時停止の表札を見逃し停止せずに走行した場合に警官に発見された時に「知りませんでした・気づきませんでした」が通用しないのはこの為だ。この確認不足や認知不良を起こしてしまった事に嘆くかもしれないが、そもそも常に人を殺してしまうリスクを背負っている事に「気が付いていない」からだろう。

 

昔の私も残念ながらその一人であった事に間違いはない。

 

話を戻そう。

 

実際に暗闇の空間にはぶつかる物や段差や自分の身に降りかかる危険が全くなかったとしても見えなければ、認識しなければ恐怖となる。

これは紛れもなく「知らない・無知」が恐怖を誘発している証拠である。

 

感情とは目に見えない、見えないからこそ恐怖ともなる。

目に見える形となって表れてくるのは人間そのもので「見ようとすれば」物理空間に依存してしまう。

 

感情に関しても知識を得て理解しようとしないと人間恐怖症になってしまうケースもある。

 

 

怒り感情を知る。

殆どの人間は「物理的な目」に頼っている為、本当の事が見えないでいると言う事である。

 

この恐怖に打ち勝つ方法は「怒り」だ。

 

怒りが不要だと言っていないのはこのためだ、そもそも怒りとは自己防衛のために使う感情であるのに防衛では無く殆どが破壊行為に使われている。

 

自分自身に打ち勝つ為に使い、自身の生命的危機を脱したり。人を助けたりする為に使うものだ。

 

今の現代日本は比較的平和なため「使いどころ」がかなり制限されているので「平和ボケ」と言う形で乱用している人が多くなっている。

 

人にぶつかっただけで「何だコノヤロウ」とビートたけし張りに怒る者もいるだろう。

飲食店では思ったものが来なかったり待たされたり、食品の中に異物が入っていたり。

自分の思った通りにいかなかったりと。

 

生命的危機ではない所で、しかも自分にではなく他者に怒りをぶつける人があまりにも多い。

これは「今」でもなく過去からずっと行われてきた事だ、本質的には過去の人間も今の人間も何ら変わっていない事を意味する。

 

このような使い方は他者を肉体的にも精神的にも傷付ける事になってしまう。

 

イタズラや悪意のある者によってこの怒りは誘発されてしまうのも事実だ、だからと言ってやられた側が怒らなければならないと言う理由にはならない。

 

悪意のある者もまた「無知」だからだ。この怒りの誘惑によって自身も怒ってしまっては同類の「無知」と言えるだろう。

 

とくにこの悪意のある者はたちが悪いのはこの記事を読んで頂いている人なら痛い程に理解できるでしょう。

 

 

怒りは輪廻で理解できる。

では、なぜ怒りの使い方を間違っているのかと言うと、輪廻と言うもので表現出来るだろう。

 

怒りもまたグルグル回ってめぐって来るものである、誤った使い方をした感情は誰かが怒り・妬みの感情を発する事でウィルス感染のように広がっていく。

 

誰しも経験はあるかもしれないが、怒っている人を見るのも不愉快だろう。

目の前で誰かが誰かに暴力をふるっている場面を見ても不愉快だろう。それは助けようが助けまいが見てしまって不愉快になった時点で感染が始まっていると言う事になる。

 

怒り行動はその対象となる人以外にも見ている人や音を聞いた者、雰囲気を感じ取ってしまった人にさえ悪影響をもたらす。

 

酷い場合、関係ない人が仲裁・関与して止めに入った者までもが怒りに支配されてしまう事だってある。取っ組み合いを止めようとして何かが顔面に当たり今風に言えば「逆ギレ」と言う現象だ。

 

それ以外にも理解や知識が乏しいく不快感を感じた人は自宅に帰っても不快感を誰かに感染させてしまう恐れもある。

 

解りやすく申すと、自分が怒りをあらわにするだけで全く見知らぬ人をも傷付ける切っ掛けを作っていると言う事だ。

 

この輪廻のようなグルグル回ってまた再利用と言うサイクルを形成させてしまう、受け取り方だが「自分が止めよう」と考えない限りこれは無意識的に広がり輪廻のようにまた返ってくるわけだ。

 

宗教ではこの現象を「バチがあたる」と言うのかもしれない。

 

止め方は単純に自分の怒りをコントロール出来るようにならなければならない。

 

 

 

怒りをコントロールする。

 

怒りを止められない、イライラが止まないと言う現象は誰だってある。

 

過去の私は実際そんな現象もあった。

 

そもそもの原因は感じ取る概念や解釈が間違っているから止められないと言う事になる。

 

「何かの責任にしている」と言う本質的なものは自身の責任放棄によるものだ。

 

「誰かがやってくれる」「誰かは理解している」「自分がやらなくても誰かがいるから」このような解釈が多い人が「何かの責任にしている」と言う事だ。

 

この誰か・・・・というこの考え方で自分の感情に制限を掛けてしまい自分自身の感情のコントロールさえも失わせてしまう。

 

これは全てに言える事で誰か・・・でなくても同じだ。

 

物が悪いとか、怒った時に物に当たると言う行動は何かの責任へ押し付けている表れである。

 

正直「物」には感情が無い、だから投げても蹴っても壊しても「物は怒らない」好き放題出来る、その行動そのものが自身の感情のコントロールを失わせてしまう。

 

「動くと思っていた機械が動かなくなってしまい苛立ちを隠せない」この場合も機械の責任に押し付けている行為だ。

 

機械は何も言わない分、正常な動作をするには整備が必要だ。機械の場合動かなくなった原因は自分の感情ではなく物理的などこかのパーツが正常に動かなくなっただけであるのに人間はわざわざそこに感情を導入する。

 

叩いて治ってもそれは振動による何かの作用によって動いただけで自分の感情とは殆ど関係が無い。

 

「殆ど関係ない」と言う理由としては不完全な人間が不完全な機械を作る所だ、これは不完全だから成し遂げれる物事で、機械に愛着がありそれを日々整備したとしよう。人によってその機械の性能を上げたり下げたりするものだが、車のエンジンにもパンフレットには載っていない性能がある。

 

 

仮にパンフレットには100ps(100馬力)と書いていても細かく計測すれば98psだったりや120psだったりとバラつきが生じる。

 

何故このような事が起こるのかは話が長くなるので車屋さんに問い合わせていただきたいと思う。

 

完璧ではない不完全な人間だからこそ機械のポテンシャルを規格以上に上げるような感情行動を兼ね備えていると言う事だ。これは良い事ばかりではなく逆に下げてしまう事もあり得ると言う事は言うまでもないだろう。

 

 

話がかなりそれてしまって申し訳ない。

 

話を戻そう。

 

 

つまり、全く関係が無いと思っている事柄でも常に1人1人が何かの影響を受け、影響を与えていると言う事になるわけだ。

 

これを私は共鳴・共存の法則と言っている。

 

論文も出していないし認可を受けているわけではないので勝手言っているだけだけど。。。

 

怒りをコントロールする為には知識を得てそれを自己解釈すればいい。

 

慣れも多少必要だが起こりうる可能性を理解していれば怒りと言うものはすぐに緩和出来る、無知ながら予測も出来ずに目の前の出来事を突拍子もない事柄と認識してしまうから怒りが出て来るわけだ。

 

人間が車を運転すれば事故は起きる、信号を信じ切って青信号で走行した所で子供が飛び出せば事故は起きる。

 

信号は交通整備の為に設置されているだけで安全確認は自分でしなければ事故の確率を下げる事は出来ない。

 

単純に青信号になって前進するだけの行動は「信号に責任を押し付けている」と言う事だ。

 

レストランのウエイターが食べ物を自分のテーブルに置く際に「絶対にこぼさない」と言う保証はどこにもない。手を滑らせてこぼす可能性はそのウエイターの注意力に掛かっている。

仮にこぼしてしまっても「あり得る可能性」だからこそ未然に察知できるだろう。

あり得る事なので何も怒る必要はないと言う事だ。こぼす可能性がゼロでない以上、自分の大切な物や衣服を汚したくないのであれば自分もテーブルに置く時に注意しておけばいいだけの話。

 

もうお気づきの方もいるだろう。自分の確率もまた他者の確率と深く関わりがあると言う事を。

 

事が起きてから怒るのはもう手遅れだと言う事をまずは知っておくべきだ。

 

事が起きてから感情を振り回した所で壊れた車や汚れた衣服、死んでしまった人間は元通りにはならない。

 

物は買い変える事が出来るかもしれないが、見た目は同じでもその年月、日、時間、秒、場所などに製造して完成された全く同じ物は二度と戻らないのは当然の事だ。

 

これは慎重に考えろと言っている意味ではない。

 

単純にありとあらゆる可能性を考えておけばいちいち怒りを淫らに振り回す必要は無いと言う事だ。

 

それともう1つ、既に巻き起こった出来事には因果関係が必ず生じている。

 

起こった事をどのように肯定的に自分の今ある知識と繋げていくのかが重要になってくるだろう。