霊長類である人間には発達した脳がある。

 

同じ種類の人間は人間が死ぬと「悲しみ」と言う感情が生じる。

 

これは私にもあるし人間全てに言える事だろう。

 

しかし、現代には「悲しまなければならない」と言う概念が根強くないだろうか、勿論生きたいと考える人にとっては死とは恐怖そのものだ、基本的に人間は「知らない知識」の前では恐怖が見えて来る。

 

 

死と恐怖と覚醒

 

【あの世】と言う想像の世界を目視で確認した者は見たことが無い、仮に仮死状態を体感し人格や能力が覚醒・変革した者は何人もいるが、表現の中に【お花畑】や【あの世の人】等の登場人物を見る事がある。

これは感じた事の無い人からすれば不思議な体験なのかもしれないが体験した本人にしてみれば結構普通な体験である。

 

 

事実、この体験をした時を話すとしても綺麗に言えば「荒れていた空が急に晴れ渡り青空が見え太陽の光が差した。」っというような表現になってしまうが、これは美的な創造であり実際の所、自分だけの感覚でしかない。

 

凡庸的な表現にすると「あ、ひらめいた!」と言う表現になる。

 

表現の仕方で全く異なるイメージになるだけで実際は平坦としたものでしかない。

 

単純に申せば「考え方が変わり見ている世界が変わった」だけである、物理世界では何も変わってなく情報世界である頭の中が変わったと言える。この考え方が変わった本人が行動によって物理世界に影響をもたらすから世界が変わってしまう。物事は単純明快である。

 

この感覚等を大袈裟に表現したのが宗教が取り扱う言葉なのかもしれない。

 

 

結局な所、死ねば体験談など伝える事も出来ないから【あの世】は想像であり未知の領域なのだろう。

 

夢を壊してしまうかもしれないが天国と地獄と言う概念は忘れ去ったほうがいいだろう、未知なる恐怖を植え付ける種でしかない。

 

それに良い人は天国で悪い人は地獄なんて単なる差別でしかない、「悪い事」を悪い事として決めているのは人間であり、そもそも本質的に人間が人間を裁く事など不可能だからだ。

 

 

あの人は天国へ行ったよと多数の人が天に指差すが、率直に申し上げるとそこは宇宙である。

 

宇宙は未知だから、未知を天国や地獄と紐付ける事は可能かもしれないが宇宙探索の末に何が見えるのかも誰にも解らない。

 

 

しかし1つ言えるのは人間が考えた神様は人型だからまず神様なんて居ないだろう。

 

人が亡くなっても悲しまなくてもいいと言うように見えるかもしれないがそんな単純な心ではない。

 

 

誰かが死んで心から喜ぶ人は少ないだろうが公の世の中では誰かが死んで喜べば神経を疑われる。自分と違う感覚を持っていると批判を受ける。人間社会はこれだから自分の心は自由になれない。

 

率直に誰かが死んで喜ぶのか悲しむのかは本人の問題だ。その様子を伺い他者が勝手に評価出来るようなものではない。

 

大事なのは喜ぶのか悲しむのかではない、喜んでもいいし悲しんでもいい。

 

本当に必要なのは亡くなった人について亡くなった「意味」を理解しようとする心だ。

 

この「理解」と言うのは正論でなければならないと言う事はない、自分自身が亡くなった人の事を考え、何を残してくれたのか、そして何を教えてくれたのかを理解する事だ。

 

注意すべき点は「何を残してくれたのか」と言う所だろう、人は何でも物に頼る側面がある、私が言いたい「残す」とはお金とか家とか資本などの【物】の事を言っているわけではない。

 

中には遺産に対し喜ぶ者もいるが、そのような考えでは「亡くなった意味を理解する」には遠く及ばないだろう。

 

否定するつもりはないが、勿論「それでもいい」と考える人もいるかもしれない。しかしそのような思考の人はこの先も物に依存しやすい人であり本当の愛を手に入れるには時間が掛かるだろう。

 

死んだ人間は二度と戻らない、これだけは全ての人間が知っている事かもしれない。

 

だからこそ亡くなった人を想う心が必要だと考える必要がある。

 

 

受け継ぐ為の命

 

人を亡くすと悲しみでいっぱいになる、しかし「時間が心を癒す」と言う考え方は大きな間違いである。

 

時間を掛けて理解を深めれば幸いだが、「悲しんで忘れて終わり」が一番の不幸だ。

 

自分の目の前で亡くなっていく人を受け入れ死ぬまで忘れない事こそが亡くなった人を想う心である。生きたと言う証を心に刻み生前に残した考え方や感覚・感情、悲しい顔、笑顔、様々な思いで全てを鮮明に記憶しておく事が本来の弔いとなるだろう。

 

葬式をすればいいわけではない、火葬だか土葬だかたいして関係ない。

心に刻む事が出来れば葬式など必要がない。

 

葬儀を行い気が済むのならやったほうがいいかもしれないが、亡くなった人を想うという面で大事なのはそこではない。

 

その亡くなった人が死して教えてくれるものは非常に、そして莫大に多い、それを受け入れ認め受け継ぎ伝える事が亡くなった人の意味だ。

 

1度しか無い人生が終わっても来世があると言われるのは生きている人間の記憶に残っているから生き続ける事が出来る。

 

忘れてしまえばその人の存在も消えてしまう。つまり、生きた証も消えると言う事になる。

 

その中には「悲しまなければならない」という言葉は無い。

 

 

亡くなった人は何処へ行くのか?

 

何処にも行かない。

 

心停止し脳機能が失われ肉体が腐敗していくだけだ。

 

本来は自然の循環によって肉が土となり森林が実り草食動物、肉食動物と循環するものだが人間は火葬や埋葬と言う概念があるためある意味の自然破壊に加担しているようなもの。

 

それが単純な現実である、人間はその恐怖や悲しみを埋め合わせする為に気休めになる天国や成仏とか極楽とか言う概念を作った。

 

それを信じていれば心が安らぐのかもしれないが短期的なものでしかなく自身の概念が構築できたわけではないのでちょっとした事ですぐに崩れ去る。

 

幽霊と言う概念もあるがこれは意識編成の錯覚やゲシュタルト破壊など賛否両論ではあるものの、自分自身が作り出した幻想や幻覚・洗脳と言ったたぐいのものだろう。

 

霊体が存在するのであれば紛れもなく生きている人間、我々の脳みその中にいると言うことになる。つまり人間の感情の中にいると言うことだ。

 

 

心の癒し方

 

 

もっとも、この文章を読んでいる人の中には否定的な考えが多いのかもしれない。

 

だからと言って得た心を伝えない事はしない、心は厳密に言えば脳と言い換える事が出来る、これは現代の知識が高度になって昔では思いも付かなかった概念を日々作り続けているからだろう。

 

残念な事に私は「脳みそ」を「脳みそ」という言葉を付けた人さえ知らない。

 

学ばなければ解らない事だらけだが、心を癒す方法は馬鹿でも出来ると言う事だ。

 

単純に亡くなった人の事を考える時に今の自分がどうなっているかを落ち着いて見つめ直す事である。

 

これは瞑想に似た感覚かもしれないが、いちいち座禅を組んでやらなくても歩きながら出来る。

 

ただ、今自分の感情がどんな感情かを自問自答するだけだ、悲しいなら悲しい、嬉しいなら嬉しい。

 

その状態を自分で否定してはいけない、自分に嘘はついてはいけない。

 

その感情を受け入れ自分はこうなんだと信じる事で心は癒される。

 

「1日10分やれば大丈夫!」と言うよなセールスチックな方法でもなく、時あらばそれを繰り返し自分を見つめ直し過去の人を考え「あの時あの人は」と考えるだけで単純に亡くなった人に会えるのだ。

 

その時にもし生きていたら答えをくれるのに、とか、話したいなとか、触れたい、声を聴きたいと言う気持ちにかられたら、まだまだ理解が浅いと言う事になる。

 

そういった物理に頼る自分に1つづつ気付いて【自分の事を知る】事にある。