妊活を再開した。

未来のことはあまり考えないように
しているが、どうしても年齢の壁があるので
家族構成について考えてしまう。

私は、若い頃から子供は3人授かりたいと思っていた。
自身が3人兄妹で、なんだかんだ頼りにし合っている。
だから、自分が子供を授かれるなら、
子供同士相談できたり、支え合える環境を
つくってあげたい。

しかし、この後におよんで3人は
どう考えても無理だ。

本当に望むなら20代のうちから取り組まないと
いけなかったとおもう。

出産できたとしても、あと一回が
現実的なところだろう。

それすら叶うかわからない。


だけど、欲張ってはいけないし、
明るい未来を想像して
いいことなんてなかったから
考えちゃいけないのだが、

体外受精で
卵二つを戻して、双子が生まれないか。

と、ついつい欲張った思いを
してしまう。


これが頭に浮かんですぐに、
欲張るとろくなことがない。無になれ。
と言い聞かす。




神様。

もう欲張りません。
どうか、赤ちゃんをさずけてください。





休み中、勇気をもらう出来事があった。
妊活再開の後押しにもなった。



近所に住んでいるご家族。
旦那さんは私より少し年齢上かな?
奥さんは私と同じ年齢くらいかな。
お子さん2人、小学生と幼稚園くらいの子。

いつも通りすがる時、
仲良し家族をみて
うらやましく、微笑ましくもあり
挨拶していた。

家に帰る途中、
たまたま奥さんと遭遇。
近所なので、一緒にかえった。

いつも仲良し家族でいいですね。
的な話を私がした。

奥さん:いやいや。もういつもばたばたで。
    子供達もパワーがありすぎて。

というようなやり取りだったとおもう。
そんなやり取りの中で、

奥さん:なんたって、高齢出産だからね。
    パワーがもたないのよ。


高齢といっても、一般的には35歳から高齢出産。
逆算しても、35歳前後で2人産んだのだろうなと
思った。
私はすでに40だよ〜。と心で突っ込んだ。

私:いやいや。高齢といってもまだまだ〜
 的な返しをした。

奥さん:いや。マジで高齢だから。
    下の子産んだの43の時だし。




!!!!




すごい見た目の若い人だった。
お肌もすごいきれい。
とても可愛らしい人。

43歳で産んだということは今は。。

逆算すると、私よりだいぶ先輩である。
こんなに若いのに。

というびっくりと共に、嬉しくなった。


43歳で産んでいる。
高齢出産、40歳以上の出産を
わたしの周りであまり聞かない。
聞いたとしても、芸能人の話。
身近でうれしい話があり、
勇気がでてきた。

この奥さんは、自然妊娠したのかもしれない。
年齢的に治療したのかもしれない。
さすがに込み入ってはきけないが、
どちらにしろ
40代の出産はリスクもあり、
無事に出産するまで、大変だったとおもう。
それを乗り越えて、今幸せ家族がいる。


私も頑張りたいとおもった瞬間だった。














長い休みが終わり、昨日から日常にもどった

休み中、帰省したのもあり、
朝ウォーキング、大量のサプリ、酢玉ねぎ、
今後の妊活のために処方された漢方など
すべてお休みとなった。
基礎体温も測っていない。

好きなドラマをみたり、
旅行したり、
お酒飲んだり、
ピザなどのパーティーメニューや
ビュッフェで大食いもした。

ほんとに自由し放題の休みだった。
ほんとにストレスフリーだった。



ただし、ストレスフリーなのは、
好きなことをやっているときだけだ。

ドラマ見たあとは、
夜更かして身体に悪いな。
卵子を老化させたかもとおもった。
体温計やサプリを持ち歩かず旅行した時も、
お酒を飲んだ時も、
不摂生な食事をした時も、
おわった後は同じことをおもい
罪悪感と不安におそわれた。



やっぱり諦められないのかもしれない。
罪悪感はいつまでも残ってしまうかもしれない。


結論。
もう少し続けることにきめた。
ただし、ゴールがどこかもわからず
闇雲にいつまでも走るには
全力疾走できない。

やるからには全力でいきたい。

ゴールをきめた。



前回ぎりぎり40歳前に初回の助成申請がとおった。
あと5回申請が可能だ。




あと5回。




あと5回、ときめた。



5回って、多いような少ないようなよくわからない数字だ。

期間にすると1年から2年分。
42歳になっている。


果たして、
ゴールの先は何があるか。
どちらになっても、全力でやりきった
自分をたくさんねぎらおうとおもう。




手術、静養後翌週から通常稼働となった。
仕事もいつも通り。

気持ちは一新された。
周りへのトゲトゲは消え、やさしい気持ちで
仕事にのぞめた。

仕事が忙しく、この時期は仕事に専念した。


医師からは、三回生理がきたら
妊活再開してオッケイといわれた。
どんなに諦め提案されてもやめなかったからか、
妊娠まではできたからなのか、
今回、医師からは諦めの話はでなかった。


ただ、私はすごい悩んでいる。
赤ちゃんを抱っこしたい。
赤ちゃんほしい。この気持ちはかわらない。
しかし、それまでの道のりが長すぎる。
うまくいくかもわからない。
道のりがどれだけ長いかは医師にもわからない。

採卵周期前に、2週間朝晩の座薬
採卵周期、時間ぴったりの座薬と点鼻
採卵
移植
移植後の座薬、自己注射
判定後の座薬、自己注射、ヘパリン注射。
これにプラスして
毎日の漢方、サプリ、処方の薬
定期的通院。
突然の仕事の有給取得連発。

これを成功するまで何回繰り返すことになるのか。
気持ちの浮き沈みもたくさんあるだろう。
お金も再びたくさんかかる。
貯金の切り崩しがいつまでもつか。


今、2回目の生理がおわった。
来月から妊活は再開できるだろう。

流産後の仕事開始から仕事納めまで、
仕事に没頭できた。
この一ヶ月は妊活を忘れ
気持ちが楽だった。

休みに入り、いろいろ悩んでいる。
諦めたら、楽になるのだろうか。
諦めたら、後悔するのだろうか。


どうしたらいいか答えが見つからない。
前回の妊娠判定で、クリニック卒業を体感しかけ、
やりきり感がでてしまったのかもしれない。

このブログをはじめた当初
40歳までを期限として
最大限頑張ろうと思った。
最大限がんばった。
やりきった感があるのだろう。

しかし、最後の諦め覚悟で
のぞんだ体外受精で妊娠した。

次への期待ができてしまった。
赤ちゃんをあきらめたくない。
しかし、妊活をはじめるのがしんどい。


この休みのあいだもう少し悩もうとおもう。










妊娠して、なぜか
トゲトゲしくなった。
心の中でたくさん毒づいた。
ホルモンの影響か。
もしくは、妊娠とは関係なく
部署異動があったので環境変化の影響か。
毒づきながら、客観的な自分が、
その毒に引いている。
前はこんなことおもわなかったのに。
やな奴になったな。と。
トゲトゲし、自己嫌悪し
ほんとにつかれた性格になっていた。




流産して、
たくさん泣いて
何がいけなかったのか振り返り、
学んだ。

思いやり心。

妊娠中の私に足りなかったもの。
当たり前すぎることだが、
意外とわすれがちだ。


相手に対する思いやり心があれば
トゲトゲしい思いはなくなる。

それは、会社の若い上司に対しても
そうだし、 
満員電車でイライラをむきだしちゃう人や
スーパーで融通のきかない店員さん、
エレベーターの順番を待たない人
まったく知らない人に対してもだ。

今までは、いちいちイライラして
しまったが、相手への思いやり心があれば
満員電車のイライラの人には、
わかるよ。この状況はつらいよね。と同情し、
スーパーの人には、ルールをしっかり守ってるんだな。
とか
エレベーターの人には、きっと急いでいるんだろう。
と転換して考え、余計なイライラは
しなくなる。

もちろん、エレベーターで優先的に
利用すべき人を抜かす人がいたら
順番ですよと声をかけるとおもうが。


流産して、忘れていた
思いやり心を思い出せた。
そして、今までのやな奴な自分が恥ずかしいのと
周りに対して申し訳ないと反省した。


これに気付いてから約1か月。
とても穏やかに過ごせている。
イライラもしなくなった。
よっぽどの時はさすがにイライラするが、
そんな時は一呼吸するようにして
思いやり心だ。と心で唱えるようにしている。

異動先の部署でも明るくすごせて
会話も増えた。
若い上司とは積極的に会話を
することはないが、
だんだんとわだかまりは小さくなって
きているきがする。

流産してよかったとは決して思わないが、
気付きをもらえたことに感謝している。
これに気付けなかったら、
今もずっと毒づいて、
他人のやな行動にまで
いちいちイライラして
どんどん腐っていく自分に
さらにイライラして
大変なことになっていたとおもうし、
一緒に生活をする夫ともギスギスに
なってしまっただろうとおもう。


この学び大切にする。


この先ずっと
思いやり心 を忘れないようにする。






術後2日目

夫と供養しにお寺にいった。

夫がが事前にたくさんのお寺をしらべ
供養に行こうと提案してくれたのだ。


供養にいくお寺の庭に
赤ちゃんを抱いた女性の仏像がいた。
仏像は優し顔で赤ちゃんを見つめていた。
これがお寺選びの決めてだったようだ。

本当に優しい眼差しだ。


お寺に入り住職さんに
挨拶をし、早速お経を読み上げてもらう。

いろいろお供えに持ち込んでいいとのことで
赤ちゃんへお手紙をかき、
赤ちゃんを入れるはずだった木箱と
赤ちゃん用お菓子、小さいお人形を
セットにしてお供えした。

15分くらいだったろうか。
お経をしてもらっているなか祈り続けた。

わずかではあったが、お腹にきてくれてありがとう。
全然かまってあげなくてごめんね。
自分のことばかりになってごめんね。
次は必ず生まれてこれて、
幸せな人生送れますように。

これらをずっと心の中でとなえた。

終わりに、住職さんからありがたいお言葉をいただき
お寺を後にした。


とても寒い日だった。
駅までバスで20分くらいある距離を
夫と歩いてむかった。
 


夫:おわったね〜
私:おわったね〜


夫:がんばったね。ありがとうね。
私:こちらこそありがとうね



田舎道。
コンビニをやっとみつけた。
コンポタを買って温まり、
再び歩き出した。



歩きながら
あの時、お腹に赤ちゃんいたのに。
その頃はお腹が大きくなってる頃だ。など、

とかだったのに発言は夫の前で
しないことを誓った。


この頃から
前を向けるようになってきたとおもう。
心拍停止を告げられ約2週間後だった。

まだ初期の流産だから
早く前向きになれたのかもしれない。

もともと、さばさばして
感情的ではなく、現実的に
物事を考えるタイプだからかもしれない。

時が解決してくれたのかもしれない。




立ち直れた。

これからどうするかな。





















仕事は有給をもらい1日ぼーっとした。

 

心拍停止確認時は、【心拍停止 復活】検索を

たくさんおこなった。

 

手術後は、まったくスマフォを手にしなくなった。

もちろんブログの更新も、

妊娠判定日でとまったまま。

現状をつづることはできなかった。

妊活関連の情報をみる気力がなかった。

 

何も考えたくなかったので、

大好きなドラマを見ることにした。

平日にドラマ見放題なんて、なんて優雅なんだ!

と楽観的に思うことにした。

 

中谷美紀の

【あなたには帰る家がある】を

全話いっきにみた。

不倫の話で、妊活の話は一切でてこなかったきがした。

中谷美紀や木村多江の激しい攻防に

スカッとし、あっというまに時間がすぎた。

 

 

今日はおじさんの葬儀の日だ。

近くに住んでいながら参列していないので

親戚一同どうおもうだろう。

そして母親が近場の人たちに話していないか。

心配だった。

でもだれも流産のことは聞いてこないから

実際のところ、どうだったかもわからない。

 

こんなことをふとおもったりし、

ほんとに動かず何もせず、

ほぼ無の状態の1日を過ごした。

 

せわしない毎日を過ごしていたので、

ほんとに優雅な日だったと思う。

 

 

 

体調は、まったくいつもどおり。

発熱も痛みもない。

出血が気持ちばかりある程度だった。

 

検索魔のころ、

いろいろな人のブログで流産の兆候や

流産後の体調についてみていたが、

いろいろな記事に書いてあるような兆候はほぼなかった。

出血で大慌てもなかった。

たまに便秘のような腹痛があるくらいだった。

 

この何も変化のない体調。

赤ちゃんが、おなかのなかに残りたかったのか。

のんびりやの赤ちゃんだったのか。

手術をおえ、天国にいった赤ちゃんがより愛しくなった。

 

もう涙はしなかった。

ただただ、やさしい気持ち、ほほえましい気持ちで

いなくなったお腹をなでた。

 

子宮口を広げるための処置をされていたが、

子宮が広がっておなかが痛くなるのを想像した。

子宮卵管造影検査のときに、造影剤が体内に入った際、

ものすごく痛くて、腹痛のような痛みで、

排便してしまいそうな感覚だった。

途中で中止してほしい!と

言いかけるくらいつらかった。

あの恐怖を思い出し、

いつおなかがいたくなるのか心配だった。

 

そして心配ごととして

全身麻酔をする。

意識がなくなる。

その際に排便や排尿をしてしまったら・・・

と不安になった。

あの小さな手術室。

採卵や移植も毎回そこで行っている。

意識がないうちに、そののような事態になったら・・・

先生や看護師さんは、

通院歴が長い分知り合いレベルの距離感。

町であったらあいさつするくらい知られている。

そんななかで、もしもの事態になったら・・・

手術の未知の痛みよりも心配だった。

 

点滴をつけてトイレにいくと目立つのでできるだけ

いきたくなかったが、

全身麻酔中の悲劇を想像したら、

そうもいっていられない。

できるだけ体の中のだせるものはだしておこうと

何度もトイレにいった。

 



時間になり手術室にはいった。

横になり、血圧計を腕にまかれ、

指には酸素数を図る機器をとりつけられた。

 


先生が入室し、簡単に手術内容を告げた。

そして、口にマスクをあてられ、

そこから意識がまったくなくなった。

 

気が付くと看護師さんにおこされ、

意識朦朧で車いすにのせられ

リカバリー室のベッドに運ばれた。

 

赤ちゃん、いなくなったとは思えないくらい、

(つわり等もなかったので、いた実感もなかったのだが)

手術前と後と何もかわらなかった。

麻酔の残りで朦朧としているくらいだった。

 

とりあえず、着衣は汚れていないので

私の心配した事態は起きていないとおもう。

ホッとした。

 

このままボーっと22時くらいまで

ベッドに横たわった。


たまたまベッドの横に飾ってあった絵をみて

涙が目から流れた。




最後に診察があり、
出血量の確認や、薬の処方をしてもらった。
今までは子宮収縮防止の薬だったが、
今度は子宮収縮の薬で、
薬の裏面には、妊婦の服用不可
とかいてあった。
なんだか、やりきれなかった。

先生:赤ちゃんの検査について
  こちらでも少ししますので。

といわれた。
だから、赤ちゃんつれて帰れないといったのか。
とやっと理解できた。
なんの検査をするのか。
つぶ程度しかないけど、やっぱりつれて帰りたかった。
手術の日になった。
朝から急に緊張した。

朝ごはんはたべてはいけない。
水も9時までしかのめない。

いつもと違うことに、
より緊張がました。

クリニックの順番まちの行列に
並んだ。
いつも通り、受付をし、待合で待った。
しばらくして内診室によばれ、
処置された。

子宮口を広げやすくするよう
ガーゼ?を入れたようだ。

ここまでは痛くなかった。

未知すぎて、恐怖は続く。


先生:検査の申込みがなかったので、
   検査なしということでいいですね?

染色体異常かどうかを調べる検査だ。
前回の心拍停止確認のときに説明があったやつだ。
あの時は頭が真っ白だったが、
数日たち、徐々に冷静になり、説明書を読んだ。
アメリカに検査にだすこと。
約9万と高額なこと。
染色体異常とわかったとして、
次にきをつけようがあるのか不明なこと。
何より、取り出した赤ちゃんを検査に出すので
つれてかえれなくなること。
夫婦で話し合い、検査しないことにした。

前日、夫が赤ちゃんを連れて帰るようの
ケースを購入してきた。
念のため、先生にきいた。

私:先生、赤ちゃんつれてかえれますか?

先生:あ〜、できませんね。

ち〜ん。

一瞬でおわった。
えっと。この後手術したらお別れって
ことか。
いろいろあたまがごちゃごちゃし、
内診台をおりて着替え、待合にもどった。



続いて、リカバリー室に案内され、
専用の手術着に着替え、点滴をうたれ
ベッドに横になった。
手術の時間になるまで待つように指示があった。

この時点で、通常の採卵や移植の動きとは異なる。
隣のベッドの人は、卵がいくつ取れたかの話をしている。

周りからみたら、私は
どのようにうつっているか。
点滴を転がしながら、トイレに行くのも
人の目が気になって仕方なかった。

いつ手術の時間かわからず、
ただ、ベッドでまった。
お腹に手をあて、最後の語りかけをした。

子宮口を広げるといっていたので、
お腹がどんどんいたくなるのでは?
と怖かった。

いろいろな思いが駆け巡り
横になっているのに
全然寝れなかった。

看護師:そろそろ手術室に移動しますよ。

声がかかった。
緊張がたかなった。
心臓音が周りに聞こえるのではないかとおもった。





夫が手術前日、赤ちゃんに命名してくれた。

心拍停止してから
ずっと考えてくれていたみたいだ。

お腹にいるうちに
名前で呼んであげたいそうだ。


幸せになるはずだったのに、
幸せにできなかった。
これから、生まれ変わって
幸せな人生があゆめるようにと

幸【みゆき】


という名前を赤ちゃんにプレゼントした。
男の子でも女の子でもいけるでしょ?
と、いい
この名前どうかな?
と私の顔色を伺う夫。


もちろん異論はない。
なんて最高の名前なんだろうか。
夫の赤ちゃんへの愛情が伝わる。
嬉しくなった。


でも、
みゆき、と心の中では何度も呼びかけたが、
夫の前では、はずかしく、照れるので
一回しか呼べなかった。
付き合いたての彼氏の名前を
はじめて呼びすてで呼ぶような
はずかゆい感じだった。

このブログだが、
ありがたいことに、毎日多くの方にみて
いただいている。

私と夫しか赤ちゃんのことを幸と
呼んであげれなかったが、
これを読んでくれている人の心で
幸と読まれている。

夫と私以外で、
この子を幸として認識してもらえる。
ありがたい。




本当は、元気にうまれてきて、
いろんな人との出会いを体験させてあげたかった。

それができないので、
せめてこのブログの中だけでも
幸の存在を残したいと思った。


手術に向かう時も
お腹をさすりながら何度も幸と呼びかけた。 
そして、
幸か元気な時からもっと声をかけてあげれば
よかったと後悔し、
何度もあやまった。