悪いニュースばかりだけどね。それを全部つないで線にしてみるとね。1つの絵柄が浮かび上がってくる。その絵柄は良くなっている。人類が全部進化して平等になってきている。そう見えてくる。

 例えば、昭和の1900年代ほど、王室や独裁政権がつぶれた世紀はない。最近でもリビアの独裁政権が大衆のインターネットで革命が起きて成功した。だから昔、王侯貴族だけだったものが、今世界中の色々な人たちにインターネットの情報網の発達で急速にダーッと広がっていて平等になりつつある。

 今の若い人たちも、昔のように人をつきのけても生き残るという暴力団の時代じゃなくなっている。かつては不良文化をよしとする時代があった。それがなくなって俳優さんだってね、向井理君や玉木宏君や長澤まさみさんのようなお嬢様タイプになってきた。礼儀正しくて、上品で親孝行で言葉づかいもきちっとしていて恥じらいも持っていて、たしなみもある。それを見て感じて、日本もまだまだ捨てたものじゃないなと思える。





【江原啓之さんと美輪明宏さんによる人生の教え】ーホンネ日和  https://www.youtube.com/watch?v=8FWmIUKlWY8  より


女性の結婚観について


あれは不思議ですね。「私結婚できますか。」という人がいて、「すればいいでしょ。」っていうんですけど。なんかこう、自然とそうなることを待っているんですよね。棚ぼたに餅みたいに。


「ありのままの生まれたままの私を受け入れていくれる人」って言うからさ。「図々しいわね。」って。たとえば、畑から抜いたばかりの大根をさ。泥だらけの大根を「食え。」って言っているのと同じでしょ。


とても大きな幸せを期待して結婚すると困る。今は昔と逆の考え方になっている。昔は結婚イコール墓場だと思っていて、そういう言葉もあった。そういうのは覚悟があったのよ。嫁に行く前に、言われます。たとえば、舅・姑の下の世話をするのは嫁のつとめ。うちが破産したり、亭主が病気になったらお前が大黒柱になって働きなさい。何から何まで悪いことは全部言われたわけです。だから、漫然にそれを乗り越えることができた。それを選んで結婚したんだからと思えるからだ。

 ところが今は、あなたのそばで私は編み物をして、あなたは暖炉の近くにいて、あなたあなたになっているw

 今日は二人で新婚旅行に行ってなんだのって、そんなの単なるイベントよ。花嫁衣装なんてあんなの仮装大会です。そういうおもいでやれば離婚もない。それに子供が片親になって悲しんだり、グレたりすることもない。だから結婚イコール幸せと思っちゃだめです。



( 【江原啓之さんと美輪明宏さんによる人生の教え】ーホンネ日和 よりhttps://www.youtube.com/watch?v=8FWmIUKlWY8  )

世界的不況もあり将来に対する漠然とした不安がいつもどこかにあります。こういう不安と共存していくにはどうしたらいいでしょうか。

このような質問です。

これは現代病で現代では当たり前になりました。それはね。振り払うのはむりですよ。他人に無勢ですから。というのはですね、世界中がですね。まずメディアはみんな、良い話というのはね。大して視聴率も上がらないし、新聞とかの部数も上がらない。だから、週刊誌にしても新聞にしてもテレビ、ラジオ全てが、我も我もと云わんばかりに禍々しい記事ばっかりを書く。そういうニュースばかりを流す。世の中というのはまがまがしい暗い話ばかり、それに振り回されてしまう。ですから、付和雷同せずに、振り回されないように、不安感を払しょくするにはどうしたらいいか。

 自分は今までどうやって生きてきたか。そんなにね、死ぬほど食べられなかったことはあっただろうか。どん詰まりが何度あったろうか。どこの扉を開けても、押しても叩いても開かない時期。それをどうやって切り抜けてきたのか。それを切り抜けてきたからこそ今ここにいて生きている。「もうおしまいだ、もうだめだ。」と何べん言っただろう。でも、今でもちゃんと生きている。それでもふてぶてしく生きている。そのことに気が付けばいいんですよね。だから、日本も色々なことがあったけれど、それを潜り抜けて生き続けてきたんだと。ということはこれからもそうだろう。こうなるとね、取り越し苦労が必要ないということがわかるんですよ。どうも取り越し苦労が好きなんですよね。やってみないとわからないわけだし。だから、私は植木仁さんのスーダラ節が大好きなの。「あとはなんとかなるだろう。」という歌詞がね。白鳥玲子という漫画でもね。彼女がフラれてもなにしようともマイナス思考にならない。全部がプラス思考になる。

だから、結果がそうだから。



 怒るなといわれても無理ですよ。人間が感情の動物ですから。大切なのはそれをどうするかという技術です。怒りっぱなし、「げー。」っとなったまま。これは獣なんですよ。全然進化していない。むしろ退化している。カーッとなったら泣きっぱなし、怒ったら怒りっぱなし、感情の赴くまま、本能の赴くまま、動物のまま、獣のままなんです。それは人になっていくということは、一つ一つそれを考えていくということですね。

 例えば、お給料。仕事をしててね、「あーつらいつらい。こんなことを何回もやってね、あー」と思っているけれどね。だから、これだけ辛い思いをするからこそ、「よく我慢しましたね。まだまだこういうのは続くけど、はい、今月よく我慢したから、我慢料ですよ。」と、もらえるのがお給料なんですよね。これがわかると「これも我慢料か」と思える。「上司に怒られ、同僚に足を引っ張られ、同じ仕事でまたこれをやらなくちゃいけないのか、やりたくない、めんどくさい。」と思うけど、これをやるからこういう思いをするから、給料がもらえるんだなとわかる。楽なことばかりやったら我慢料はもらえないだな。そう思うとスッと割り切れるですよね。とにかく自分の心も人の心も上手にコントロールするのは難しい。

 例えば、イエス・キリスト様やお釈迦様や日蓮や信連などもいろんな先達者たちもそれで苦労した。キリストの弟子でも、イエスのことを知らないと嘘を言ってしまった。だから自分のお弟子さんさえも心を左右するというのはね。他人にはできない。だから自分の心は自分自身が変えていく。それしかないんです。

後、技術的に言うと呼吸法です。姿勢を正す。首をまっすぐ、頭を高く、猫背を直して、腰から上をまっすぐにする。それで静かに無理なく、ゆっくりと深呼吸をしていく。そうすると怒りが静まっていきます。それから口を開けばいいのです。




(美輪明宏 不安や怒りへの対処法 2013.3.24 https://www.youtube.com/watch?v=OP4VvDSbxoU   より)

「敵の狙いはこの空襲で英国民のくじくことだ。ここで私たちが学ぶことを放棄したら、それこそヒトラーの思うつぼだ。今こそ学び、この戦争のような殺し合い、憎しみ合う人間の愚かな性を乗り越えた、新たな文明を築くべきです。愚かな行為が人間の性だとしたらそれを学び、克服することは人間の使命といえるのではないでしょうか。」


「人はその意志さえあれば学ぶことができる。朝学べないなら夜学びたまえ。」


「たとえ学校がなくなくなろうと学ぶことを続けてほしいということです。(略)学ぶ情熱がある限り。」


(漫画 アニメ マスターキートン より https://www.youtube.com/watch?v=GCdR4SP2Vr4  )

昔のメモ帳は、捨てなくていいから、まとめてしまおう。


昔のことは忘れよう。


過去は所詮過去に過ぎない。


過去を否定する必要も忘れる必要はない。


しかし人は時間的存在である。


だから、昔のことに構っている時間はもったい。


だから、今を精一杯生きよう。


「自分の背中は自分で見ることはできない。」byせんだみつお


自分は自分の自我ばかりを気にしていた。


他人にカッコ悪い自分を見られたくないから、人を無視して傷つけた。


そんなことは言わなければわからないし、いくら隠しても自分がカッコ悪いことに変わりない。


自分はずれているんだ。


自分のため、他人とためといいながら、傷つくのが傷つけるのが怖いからといいながら、傷つかないようにしたために他人を見ずに他人を傷つけて勝手に孤独なり自分を傷つけてる。


本末転倒ではなく、自分の妄想で勝手に勝手に勝手に。



私がすることは他人の顔を見て正直に話すこと。

学校の同級生の同窓会に行った。


思ったことは、みんな他人を楽しませようとしていたこと、いい意味で小学生のころと変わらない無邪気さを持っていた。


それを見て、自分は自分の自我にしか興味ない嫌なやつだと思った。


確かに、他人と自分を比較することは、暗くなるだけだし、意味のないことだ。


しかし、それでもあまりにもひどすぎる。



人は忘れる、もしくは捨てる生き物だ。なぜなら、そうしないと人は生きていけないからだ。例えば、本やゲームやプラモデルなどをたくさん買う。しかし、それらをすべて消費するには、時間が足りない。それは無駄な買い物をしているのではなく、それらより大切なものがあるから消費しないだけである。決して無駄なものではない。人には時間制限があるからしかたないのである。


 私は、鑑賞した映画などの、感想を細かくメモしたり、考えたりしている。それは他人に自分は凄いと思われたいからだ。他人に認められたいという欲求と現実を逃避する言い訳である。


 自分は、いろいろな文章をまとめずバラバラに持っている。


そういうメモはまとめないとゴミ以上に、時間を消費する害にしかならない。


だから、私はこの大量のメモを捨てるべきなのだ。


一人で練習していても意味がない。


第三者にかかわられることで、初めて人は成長するのだ。


メモは忘れよう、覚悟も集中もなく適当に描いたものに価値はない。

○こういうのってさ。実際の子供がありありと思い浮かべられるかどうかなんだよ。

そういう観察してないと描けない。
自分の自我にしか関心がない。

そういう日常生活を送ってる。

日本のアニメーションはね。観察によって基づいていない。ほとんど。人間観察が嫌いな人間がやってんだよ。
だからオタクの巣になるんだよ。


 宮崎監督は「ぼくには、鉛筆と紙があればいい」というスタンスであり、インタビュアーが手にするiPadについてこんな指摘をしています。

あなたが手にしている、そのゲーム機のようなものと、
妙な手つきでさすっている仕草は気色わるいだけで、ぼくには何の感心も感動もありません。
嫌悪感ならあります。その内に電車の中でその妙な手つきで自慰行為のようにさすっている人間が増えるんでしょうね。
電車の中がマンガを読む人間だらけだった時も、ケイタイだかけになった時も、ウンザリして来ました。

 資料探しの道具として使いこなせば良いのでは?という質問の流れで、
 時間をいただけるなら、文献を調べて取り寄せることもiPadで出来ますというインタビュアーの言葉に対して、

あなたの人権を無視するようですが、あなたには調べられません。
なぜなら、安宅型軍船の雰囲気や、そこで汗まみれに櫓を押し続ける男達への感心も共感もあなたは無縁だからです。
世界に対して、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで、
上前だけをはねる道具としてiナントカを握りしめ、さすっているだけだからです。

一刻も早くiナントカを手に入れて、全能感を手に入れたがっている人は、おそらく沢山いるでしょう。
あのね、六〇年代にラジカセ(でっかいものです)にとびついて、何処へ行くにも誇らしげにぶらさげている人達がいました。
今は年金受給者になっているでしょうが、その人達とあなたは同じです。
新製品にとびついて、手に入れると得意になるただの消費者にすぎません。
あなたは消費者になってはいけない。生産する者になりなさい

宮崎駿


○この、いささか不当にも聞こえるハイテクツール批判に根ざした宮崎駿の考えというのは、インターネットによって得られていると思っている知識が、現実から直接与えられるあれこれに比べ、二次的、三次的のものとなってしまうこと

への危機感が影響しているのだろう。
そもそも芸術の本分とは、いにしえのラスコーやショーヴェ洞窟の壁画からも分かるように、「現実を写し取る」というところから始まっている。
具象・抽象を問わずして、対象に対峙し本質をとらまえて表現するというのは、画家や彫刻家に留まらず、全ての表現者に共通する大テーマであるといえる。
もちろん、ここではiPad自体が悪者にされているというよりは、取材やものづくりの姿勢についての憤りでありサジェッションでもあったのだろう。
では、宮崎駿が自作の調査にあたり、どんなアプローチを行っているのか。
漏れ聞くところによると、例えば『千と千尋の神隠し』のために、彼はある家庭に泊り込み、そこの幼女と一緒に暮らしつつ何日間も観察し続けるという、怖ろしい方法で取材をしたという。
しかし、これが本当の芸術家の姿なのである。
対象の魅力というのは、表現しやすいもの、表現しにくいもの、美醜・清濁を併せ呑むものであり、それを一次情報から自身に取り込み、再定義しつつ作品に取り組むことで、真の表現に近づくのである。

またそれと同時期、押井守は現在のアニメーションの状況を、こういう言葉で批判している。
「僕の見る限り現在のアニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで『表現』の体をなしていない」
ここでも、二次、三次的な情報を享受し作品をつくる、内向きのクリエイターへの問題が指摘され、さらにそこで生まれたものが、オタクに消費されているものに過ぎないのだという。

専門学校でアニメーションを教えている、私の知人も、よく同じようなことを愚痴るのだが、生徒のほとんどがアニメやTVゲームにしか興味がないというのである。
彼が、イマジネーションやオリジナリティの大切さを散々説いたとしても、そのような生徒に自由課題作品を作らせると、変わりばえの無い、現行のオタクアニメ風の表現しか出てこないらしい。
作品に程度の差こそあれ、それ自体がすでに現実から距離を置いたものである以上、それのみを参考とした、いわゆるコピー作品は、受け手にとって情報価値が薄いものになっていく。
彼は、アニメーションの制作現場にいたときから、周囲のスタッフの多くに同様の違和感を感じていたのだという。
我々は、世の中にいわゆる「アニメオタク」と呼ばれる視聴者が増えたことで、そういった作品が多く作られていると思いがちだが、じつは事態はもっと進行していて、制作現場そのものがオタク志向のスタッフであふれている状況が

だいぶ以前から始まっていたのだ。
しかし、何故現在の日本のアニメーション業界は、そのような状況になってしまっているのだろうか。

http://k-onodera.net/?p=237  より)


確かに、今の時代で、映画を作る人は映画ファンから始まっている。昔のように、映画会社が大きく儲かり、映画を見るのが難しい時代とは、違うのである。
押井守も自分は天才ではない、今まで見た映画を忘れなかっただけだ。自分の映画はすべて引用で成り立っている。完璧にオリジナルな映画なんてないと言っている。

しかし、そうだとしても、あまりにも今のアニメは引用の引用であり、現実を参考にしている部分があまりにもない。



 私は「シュタインズ・ゲート」というアニメが大好きだ。

主人公は岡部林太郎という若者である。

彼は、マッドサイエンティスト鳳凰院凶真を自称している。(それとエルプサイコングルゥというキメ言葉を使ったりする。)

その状態は幼く、格好が悪い。

最初は、マッドサイエンティストを演じたり、鳳凰院凶真だと自分に言い聞かせることで、困難な決断を下したり、人を仲間に引き入れたり、自分のしたいことをしたりする。

後半で、自分のやったことによって、結果的に自分と多くの人を傷つけてしまう。

彼はタイムマシンを作り、仲間の願いをかなえる。しかし、その結果、彼の幼馴染が死んでしまう。そのために、仲間がかなえた願いを取り消していく。その願いを消すことは、大切な思い出や人の命等を消すことだった。
仲間の命と、父親の命、性別、記憶や思い、好きな人の命、どちらが大切とは言い切れない。

それでも主人公は、苦しみながらもマッドサイエンティスト(中二病)を演じ、さまざまなものを犠牲にして、仲間の命を救う。

それが終わった後、彼の中で鳳凰院凶真は消えてしまう。

その後、もう一度、困難な状態になり決断を迫られたときに、中二病が復活する。

そして、未来の自分が手助けをしてくれる。相変わらず中二病をもったままでだ。


この中二病は何を表現しているんだろうと思った。

おそらく、ひらたく言って希望だと思う。

世の中には、色々な闇がある。

この世は地獄だ、愛も友情も嘘だ、夢は叶わない、できるわけがない、未来はどんどん悪くなる、お前に価値はない。

人は本能的に否定的な事柄に注目するようになっている。なぜなら、動物は悪いことにはすぐに気付かないと危険が及ぶからだ。

だから、これが正しいという主張よりも、これは間違っているという批判のほうが圧倒的な説得力を持つ。

シュタインズ・ゲートも、岡部は、タイムマシンは作れるわけがないと言われるが、できるはずだという。直感で粒子実験センターセルンが悪事を働いていると思い、仲間にハッキングさせる。

完全に思った通りにならず、苦労もあったが、タイムマシンもハッキングも成功する。

このように劇中では、できないと批判されながらも、彼は思いを実現させたり、決断をするときに、マッドサイエンティストを演じる。

つまり、できるわけがないと言われて、いやできるんだと、俺を信じろということだ。

もちろん、自分の決断や思いだけで物事は解決できない、他人と相談したり協力することでやっと解決できる。それでも完璧に解決できないものもあり、最終的に自分の決断や思いが必要なるのである。このように劇中でしっかりと描写

している。

たとえば、小さいところでいうと、友人を遊びに誘ったり、お願いしたり、異性に付き合ってくれと告白したり、仕事の話を通す時のような、情熱なのである。

はたから見れば、自信過剰で、カッコ悪く、迷惑で、根拠がないかもしれないが、それが、否定に勝てる、思いをかなえる方法なのだ。

それは、すごく普遍的なことだと思った。

だから、シュタインズ・ゲートは好きだ。



○アニメ『中二病でも恋がしたい』の劇中のセリフ


「中二病は恥ずかしいと誰もが言う。もう二度と思い出したくない、消してしまいたいと。
でもあの時の、どうかしていた自分はもう本当にいなくなってしまうのだろうか。
自分は誰かに監視されていると妄想し、自分のキャラを設定して、なりきっていたときの自分は。
人は時に妄言を吐き、突然変わる世界を夢想し、遠い未来を想像し、存在しない大恋愛を頭の中にに描く。
それは生まれてから死ぬまで人の中で延々と繰り返される、果てしなく繰り返される、悲しくて恥ずかしくて
愛おしい自意識過剰という名の病、自分という名の避けては通れぬ営み、そう人は一生中二病なんだ」


「演劇部はどうだったんだ?」

「なんかさ、部長がやたら熱いセンパイなの。自分たちにしかできないものを作ろう!とか。新しい時代の可能性だ!とか。なんか聞いてると、中二病!とか思って」

「それは中二病なのか?」

「中二病とは違うかもしれないけど、自分は人とは違う。自分だけは特別だとか、そういうのに囚われているっていうか・・・」


「ほら、富樫君も私も厨ニ病卒業して、高校時代は普通の高校生やるぞ~って思ってたワケじゃない?

「でも、それだってきっとそういう『普通の高校生』みたいなイメージを自分で勝手に作って、それに囚われているのよ。」

「なにが言いたいんだよ?」

「べつに。ただ、結局、人はいつも何かに病んでるのかなって」

深いな。

浅いのよ。


六花ちゃんは思ったんだよ、あんなふうに想えるって素敵だなって


自分の気持ちを押し殺して、なんでも言うことを聞いてる自分より、よっぽど素直でカッコイイなって


●つまらないリアルに戻るのか!? それとも俺と一緒にリアルを変えたいと思わないのか!!!」


 この項目では、人の容姿や身長を題材にしているのでとても失礼な文章になっています。ご了承ください。


 人は外見だけでなく、中身から出てくるものだよ。中が汚なかったらなにもならない。

 外見はモデルやアイドルや宝塚の役者だったり異性を口説くには必要かもしれない。けど、生活する分には多少ミテクレが悪くても問題はない。もし、身なりを普通にしてて、あなたの外見を馬鹿にする人がいたら、その人が失礼なだけ

だから気にしなくていい。

モデルは、顔が小さく、背が高くスタイルが良くないとなれない職業だ。ただし、例外もある。たとえば栗本千秋は背が思ったように伸びなかったためモデルを断念し俳優で有名になってからモデルをやるというケースや、低身長のモデ

ルや、有名人や数字を持っているということで限定的だがモデルをやっているという場合もある。

アイドルは、背が低い人もいるし、基本的に顔はみんないいが、例外もいると思う。例えば、AKB48という100人以上のアイドルグループがある。その中で、どの子が一番かわいいかというランキング付けがされる。
それで一位になった子は、長身ではないし、失礼ながら個人的に顔もいいとは思えない。しかし、彼女の負けん気な性格や、海外のアクション映画に出たりする勢いや挑戦力は間違いなく素晴らしいものだ。
アイドルでも、基本的に容姿がいいものが有利だが、絶対ではない。

コスプレをする場合でも、それはあくまで趣味であり遊びなんだから許可を得て問題を起こしていないなら、文句を言われる筋合いはないんだから気にしなくていい。もちろんアニメのファンなどに批判されたり、身内にバレてつらくな

ったり、ネットに上げられ晒されたりするのには耐える覚悟は必要だ。しかし、たとえそうなっても、一時のものであり、なかなか注目してもらえないものである。

美人だから異性にモテるというのはあるだろうし、面接に有利ということもある。

しかし、好きな相手の好みが自分の顔でなかった意味がないし、面接に受かっても働くというのは同じである。
人は見た目がいいという理由だけで、決して無条件で付き合ったり、養ってくれたりはしないのだ。

実際、自分の周りでも美人でも話さない人や、小さくて顔もそれほど良くない人で魅力的で美人と結婚している人もいる。もちろん、美人で素晴らしい人もいるし、容姿が悪くてダメな人もいる。
容姿はその人に影響はあるかもしれないが、その人の本質そのものではない。

ネットで不細工な有名人を探して、見ればいい。幸せな家庭を築いている人はたくさんいる。逆に見た目がよくても不幸になっている人もいる。たとえ美人でも人生を思い通りにすることはできないのだ。

私が言いたいのは、美人を妬むなということではない。自分も美人を妬み、自身の容姿にコンプレックスがある。

しかい、自分の見た目を気にしすぎて、夢をあきらめたり、人付き合いをやめたり、幸せになれないと思うことは早計だと言っているのだ。

失敗を容姿だけを原因にするのは無理がある。

確かに心理学で見た目は悪いものは犯罪をおこしやすく、更正させるには整形が一番いいというバカな考え方もある。冷静に考えて、悪人顔の俳優で幸せになっている人はいくらでもいるんだから、そんなことはないのである。

イケメンや美人が、人生悠々と生きているというのは、漫画やドラマにしかないフィクションである。

そもそも顔なんて50歳になればみんな同列に並んでしまうし、どんなに美人でも若い子の顔には勝てないのだ。

それでも、どうしても自分の容姿が気に入らない。整形をする人がいるなら、覚悟が必要である。

整形をすれば、何千万というお金がかかり、失敗のリスクがあある。前の顔を知っている人とは疎遠になってしまうだろう。産まれた子供の顔が自分に似てなくなってしまうかもしれない。顎を削る手術で神経を痛めるかもしれない。思

った通りの顔にならない可能性もある、もしなったとしても満足できずさらに整形を繰り返す中毒になってしまうケースも多い。整形したら数年で崩れて再手術が必要な場合もある。そして整形しているというだけで人からはあまりいい

印象は持たれない、たとえ隠すにしても不可能に近く精神的にもつらくバレてしまった時にいいことはあまりないだろう。

個人的に二重の手術と、顎のエラ部分を小さくするボトックスはリスクが少ないとは思う。しかし、それでも整形はしないほうがいいと思う。もしするならば、強い覚悟が必要だ。

身長を伸ばす手術も、足を骨折させたり切断したりするという非現実的なもので絶対にやめたほうがいい。借金を背負い、元の生活に戻れなくなるからだ。

以上のことから、モデルなどの特殊な職業に有利という以外に美人の得はなく、不細工でも美人でも人生は大変であるということである。

美人なら素晴らしい恋愛ができるとか、そんなことばかり考えている。そればかりになって本末転倒している。大切なのは両親が亡くなっても一人で生きていけること。経済的にも人間的にも自立して、人間関係をうまくやり友人を作り

自分の世界を作っていくことだ。

容姿どうこう以前に人として一人前になるべきだ。

ただ、努力するのがいやだから言い訳を探しているだけなんだよ。世間話でするのはいいけど なんでも容姿のせいにするのはおかしい。


もちろんちゃんと働いて生活している人は、違うし、尊敬します。