舞台「陰陽師 生成り姫」の水 | 心にうつりゆくよしなしごと~浅き夢見じ

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BUCK-TICKのことが書きたくて始めたこのブログ。こよなく愛したボーカリストたちがこの世を去り、まだまだ迷い子ですが、書くことで自分を見つめ直したいと思っています。




既に五日以上も寝かせてしまいましたが、今回京都の南座で観た舞台の感想です。三、四回に分けてのんびり書いています。



舞台というものを、あまり観ないためか、とにかく新鮮でした。

キン肉マンか?と見紛うような、ちょっと気持ち悪い造形の鬼にも、かなりの衝撃を受けましたが、それよりも「すごい!」と印象的だったのは、「水」の表現です。


身投げする女性なんて、ひと昔前のドラマでしか見たことなかった気がします。入水自殺といえば、太宰治。その太宰も玉川上水に入ったのは、数十年前のこと。


でも、陰陽師の時代には飛び下りられるほどの高層建築はほとんどなく、飛び込めるような高速の列車もない。当たり前ですが、入水という行為そのものがなんだか新鮮でした。不謹慎ですが。


さて、水に飛び込む音や波の音は音響ですが、水そのものは「人」でした。人が水になり、人を飲み込み、助けようとした舎人を姫から引き離し……そんな場面を見ながら、ただただ感じ入り、表現というものの多彩さに感服致しました。


水は生きている。

そんな矛盾を孕むような事実を不思議にも、一つの真実のように受け入れてしまえるひとときでした。


行きの新幹線の中で、原作を少しだけ読んだのですが、偶然なのか水の話題が出てきます。


姿を泡などに変えても、わたしたちはそれを水と認識する。

常に形を変え、そもそも形などない存在。


引用しますと、「あなた(清明)の言い方をするなら、雨も泡(うたかた)も、本然は同じ水。見た眼の違いは、ただかけられた呪(しゅ)の違いにすぎぬということですね」というくだりです。


とするならば、あの舞台そのものが大がかりな呪であったとも言えるでしょう。


見事な呪でした。かけられて心地のよい呪。だからこそ、とにかく面白かったというシンプルな感想が出てくるのかもしれません。


無事に幕が開くのかさえ、確信のもてなかった公演でしたが、二回も観られて本当によかったです。


健くんの声が妙に低くて、ついクスッとなったり、「お前とはそういう間柄なのだ」という台詞に、そういうって?と突っ込みを入れたくなったり、出来ればあれこれ感想を誰かと言い合いたかったなぁ。それがほんの少し心残りでした。


でも、こうして話せる?場があって、救われてます。


ブログっていいな。


やっとこれで一区切りです。休暇初日の今日は、三回のワクチン接種を済ませました。これから副反応に苦しむ予定です。へへへ