南海ホークス・オリックスブレーブス・ダイエーホークスで活躍し

 

プロ野球歴代3位となる通算567本塁打を記録した門田博光氏が亡くなられました74歳でした…

 

どうやら通院治療中だったようで23日に通院に表れなかったため…

 

病院から相談を受けた警察官が自宅を訪ねたところ倒れていたそうです…

 

門田さんと言えば怪我との戦いもありましたが…

 

40歳の1988年に本塁打・打点の2冠王となりパ・リーグMVPを獲得し

 

「中年の星」や「不惑の大砲」とも言われていました…

 

出身は奈良県五條市出身ですが…生まれは山口県の山陽小野田市です

 

天理高校から社会人のクラレ岡山を経て1969年のドラフト2位で南海ホークスに入団

 

背番号は27でした

 

1970年の開幕からデビューを果たしましたが…

 

二塁走者として出場した時に帰塁の際に右肩を脱臼してしまい…

 

79試合の出場に留まりました…

 

その後、脱臼癖があり…

 

1984年4月14日とオリックス時代の1989年9月25日にハイタッチで右肩を脱臼してしまっています…

 

良く珍プレーでブーマー・ウェルズとのハイタッチで脱臼したシーンをよく見ますが…

 

1989年9月25日の福岡ダイエー戦以降離脱しオリックス1年目で優勝を逃してしまいました…

 

 

2年目以降は中距離打者として頭角を現し31本塁打120打点と打点王のタイトルを獲得

ただし選手兼任の野村克也監督からは「大振りはやめろと」言われてたそうです…


それでも野村監督は才能は認めていたようで「ライトの門田は10年不動のままでいける」と言われていたので信頼はあったようです…

 

1979年2月16日の高知での春季キャンプ中に準備運動でジャンプの着地の際に右足のアキレス腱を断裂…

半年間の長期離脱となりましたが…懸命なリハビリでシーズン終盤に復帰しました…

 

1980年に背番号を44に変え長打狙いのバッティングに徹し41本塁打を記録しカムバック賞を受賞

 

翌年1981年は44本と本塁打王に輝きました。

 

そのうち7月は月間16本打ち当時のプロ野球新記録を作りました。

 

翌年には背番号も60本を目指し60に変更

 

1983年にも本塁打王を獲得

 

1987年8月26日の大阪球場での対西武18回戦で工藤公康投手から通算2000安打を放ち名球会入り

1988年には40歳で44本塁打、125打点を挙げ二冠王とパ・リーグMVPを獲得

 

1989年に南海がダイエーとなり大阪から福岡へ移転となり単身赴任を避け…(当時奈良に自宅があり近鉄電車で通勤していた模様…)

 

当時、阪急から身売りしたオリックスに移籍、背番号も78となりました。

オリックス時代はブルーサンダー打線の一角として優勝争いに活躍しました…

 

1991年にオリックスが西宮から神戸に移り、子供の進学で単身赴任が可能となり

古巣となる福岡ダイエーに復帰しましたが…

 

平和台球場最後の年の1992年に44歳で現役引退しました…

結局、引退後は指導者の復帰はありませんでしたが…


病気との戦いでした…


糖尿病を患い…脳血栓で倒れたり…


腎不全で週3回人工透析を受けなければなりませんでした…


それでも2006年には野球殿堂入りを果たしています。

 

試合数は歴代9位の2571試合、安打数は歴代4位の2566安打

 

本塁打数は歴代3位の567本、打点は歴代3位の1678打点でした…

因みに本塁打・打点は王貞治氏・野村克也氏に次ぐ記録です

 

 

先程入ってきた突然の訃報なので非常に残念です…

 

ご冥福をお祈り申し上げます…