2004年1月3日未明。
暗闇。既に円環は閉じられた。溢れる多様性の中で溺れている。全て捨て去ることが何故出来ない。何に対する憂慮だろう。こんなのは、ありきたりな孤独だ。
幼年期。今更気付く失われたものの大きさ。切望された終末。どんな事象にも意味はない。意味は、その事象の観測者が付与するだけのこと。相互理解など幻想でしかないのに、なぜ触れ合うのか。ただ種の保存。それだけなのかも知れない。 それだけの為に自分の時間を消費するにはちょっとした抵抗を感じる。だが凡人故にそういった欲求は付きまとう。何一つ得る物も喪う物もないはずなのに、まだ何か期待するようなことがあるのだろうか。
幼年期。今更気付く失われたものの大きさ。切望された終末。どんな事象にも意味はない。意味は、その事象の観測者が付与するだけのこと。相互理解など幻想でしかないのに、なぜ触れ合うのか。ただ種の保存。それだけなのかも知れない。 それだけの為に自分の時間を消費するにはちょっとした抵抗を感じる。だが凡人故にそういった欲求は付きまとう。何一つ得る物も喪う物もないはずなのに、まだ何か期待するようなことがあるのだろうか。
承前
不用意に安易に放たれる言葉。いっそ全て過ぎ去ってしまえば。ただの憧憬。意味をなさない言葉だけ堆積した。否、言葉の意味は定義されているから言葉の意味がなくなったのではない。ただ羅列。共感などというものは錯覚にすぎないのかもしれず、それぞれの主観からの思い込み、或は希望的観測。それでも共通の認識を持っている、持ちたいと多くの人達が望むのは誰もが本来的に孤独だからなのだろうか。言葉の解釈はそれぞれ個人の環境や経験の違い、機能的な理由などから差違が生じる。だから理解し合うことはとても困難だ。関係する人数が増える程、差異も増大する。とは言うものの、日常生活には然程支障はない。たまに「なんだかな」と思う程度ではある。全く以て許容範囲だ。それに個人的には理解し理解されるような関係を強くは求めていない。半ば放棄していると言ってもいいくらいだ。極限られた数人の人達と過不足なくコミュニケーションが取れればそれでいいと思 っている。この文章自体、自分自身に対して書いているし、書く理由がなくなる時を目指して、ここに書いている。私の言葉は多くの矛盾を孕んでいるが、そんな事は気にしない。誰も気にしないだろう。
只存在するという事の困難さ
破線を飽きずに辿った。空虚な連想。主観に基づく事物に対する反応は、そんなものに意味はない。客観的には意味がない。だから只沈黙する。影響は受けない。寡黙が示す奥行きは二次元的に自己相似を繰り返す。保身の為の無意味な調和。只の擬態だ。理由は明白。しかし客観的には意味はない。
