(その4の続きです)
 
残念ながら、値上げのプレッシャーは続きます。毎年5月、日本の労働者は全国的なストライキを行ない、それは通常1週間続きました。国全体が文字通りシャットダウンされた状態になるのです。驚くべきことに、1973年には、年間賃金の上昇が20%にも達しました。同じ年、カナダのVHモデルズのオーナーであるフィル・クローレイが、いっしょに韓国にいってブラスモデルを作れる可能性があるかどうか調べてみないか、と言ってきました。韓国政府の貿易協会は、韓国製品を扱う海外のバイヤーを探していたのです。米国が玩具を大量に購買している、という事実から、彼らは鉄道模型をターゲット市場ととらえました。韓国の安い賃金で「おもちゃの汽車」を真鍮でつくっている日本に対抗できると考えたのです。彼らはそれらのブラスモデルが子供向けではない、ということを知りませんでした。
 
この旅の結果、PFMとVHモデルズは、サムホンサと関係を築きました。フィル・クローレイはカナダのプロトタイプを製造する契約を結びました。その後、PFMは、サムホンサをいくつかのプログラムで使いましたが、それらは試験的に行なったにすぎませんでした。サムホンサの名誉のためにいえば、彼らは懸命に、こちらが受け入れ可能なモデルを作ろうとしました。しかし、彼らの機械、ツール、経験は日本にはるかに及ばないものでした。PFMは彼らの努力を何とか支援しようとしたのですが、クオリティはクエスチョンマークでした。モデルの価格は日本よりかなり安いのですが、同時に、韓国のビルダーは非常に大きな数量を求めてきました。ほとんど知らない会社と取引しなければならない、というリスクもありました。
 
サムホンサでいくつかのモデルを完成させたものの、それらは決してPFMの品質スタンダードに及びませんでした。1978年、PFMはサムホンサに、クオリティが十分に改善されないため、将来のプログラムを中止する、と伝えました。その間、PFMはジオン(SKI)という会社と小規模な取引を始めました。後年この会社は、かなり良質のモデルを生産するようになりました。
 
クラフトマン誌1977年3月号に掲載された、リオグランデのパシフィックの広告です。紙面に韓国製の表記は一切ありませんが、ビルダーはサムホンサ。ロストワックスパーツを贅沢に使った決して悪くないモデルだと思います。あくまで推察ですが、ディーラーや消費者に迷惑をかけてしまうような品質のバラツキがあって、それが生真面目でつねにお客様のことを考えてきたドン・ドリュー氏には許せなかったのかもしれません。
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こちらはクラフトマン誌198310月号に掲載された、SPのスイッチャー。ビルダーはドン・ドリューさんのお気に入りである韓国SKI社です。
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サムホンサについて言えば、1980年代から1990年代にかけて、彼らはクオリティを劇的に向上させました。サムホンサは他のインポーターのために、いくつかのファインブラスモデルを作り始めました。彼らはとうとう、MTHエレクトリックトレインズ社と、大きな取引をするようになりました。この会社は、1980年代後半に始まったスリーレイルの再ブームを受けて、ライオネルのレプリカと、ハイクオリティでディーティルに富み、美しく塗装されたダイキャストモテルをプロデュースしていました。PFMは図面や写真、HOモデルを貸し出す等、MTH社を手助けしました。
 
1960年代半ばには、1,000ドルあれば、ディーラーは20から30台のPFMモデルを仕入れることができました。ビル・ライアンは常に、ディーラーが店頭のディスプレイにさまざまなPFMモデルを飾っていることを望んでいました。実際にモデルを見ることができれば、購入を考えているお客さんにとっても、店にとっても、そして最後にPFMにとっても、便益となると考えたのです。しかしながら1980年代になると、日本の人件費が劇的に上昇し、ディーラーは1,000ドルでは店にディスプレイするモデルを2台か3台しか買えなくなりました。さらに1990年半ばになると、1,000ドルでは1台のモデルすら買えなくなってしまったのです。
 
そうなると、多くのディーラーはモデルをディスプレイしなくなり、購入を確約したお客さんがいない限り、PFMからモデルを買わなくなりました。価格が非常に高くなった上に、小売店の店頭で直接モデルを見ることができなくなったため、ブラスを買うお客さんの数は大きく減ってしまいました。結果として、モデルは、小売店の店頭でディスプレイケースに飾られる代わりに、お客さんの目に触れないPFMの倉庫に積まれることになってしまいました。
 
 クラフトマン誌1979年4月号に掲載されたバーゲンセールの広告。華やかなセールにみえますが、実は在庫が積みあがってキャッシュがまわらなくなったPFMが、ディーラーに対して、1979年2月末を期限に特別値引きを実施した上で、消費者向けの告知を行なったもの。一部は原価割れで販売したようです。左下には、創業者であるビル・ライアンの146点のコレクションを放出するオークションが告知されています。ドン・ドリュー氏は熱心なコレクターでもあり、その彼が貴重なモデルを手放すのですから、下衆の勘繰りながら、PFMの資金繰りがかなり苦しくなっていたことが推察されます。
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東洋の高コストとディーラーが在庫を持てなくなったことによって、PFMの製品の流れは著しく減りました。PFMは2大鉄道模型雑誌の裏表紙を21年間に渡って確保しており、同じ広告を2度と繰り返さないというポリシーを持っていました。1960年代から1970年代にかけて、われわれは数多くの製品を開発しており、告知するアイテムに事欠きませんでした。ところが前述の理由で、広告するものが少なくなってしまったのです。21年間、500以上の広告の後、1985年の半ばに、われわれは泣く泣く裏表紙の広告をやめたのです。
 
モデルレイルドーダー誌1985年5月に掲載された、PFM最後の裏表紙広告。ロコはアムトラックのF40で、ビルダーは本文で1978年に関係を断ったとある韓国サムホンサです。この裏表紙には、翌月からウォルサーの広告が掲載されました。
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こちらはクラフトマン誌1985年6月に掲載された、同誌へのPFM最後の裏表紙広告。ロコはNPのアーティキュレーテッドで、ビルダーは韓国SKIです。翌月からはあたかもブラスの盟主が交代するように、新進気鋭のインポーターであったオーバーランドの広告が掲載されました。
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(その6に続きます)