(訳者注:ここからが、ダン・グレーシャー氏の記事の翻訳です)
 
 
王に相応しきもの
 
パシフィック・ファースト・メール創業者
ン・ドリュー氏インタビュー
 
数十年に渡って、パシフィック・ファースト・メールの名は、本物のクオリティを輸入することのスタンダードを設定してきました。創造と卓越へのこだわりによって、PFMは今日のブラスモデルを形作ってきました。PFMはまた、さまざまなハンドクラフトによる数量限定の芸術品、まさに「王様に相応しいようなもの」を輸入しました。(いくつかは今でも「王様の身代金」のごとき価格で取り引きされています)。真のマニアたるや、PFMが長きに渡って生み出したファインモデルのいくつかを持たないことには、コレクションが完結しないのです。
 
(青文字は訳者による図版のコメントです。以下同様です)。
現在Brasstrains.comで売り出ているPFMのハンドビルトモデル。ユナイテッド/ナカヤマによる1962年の製作で、生産数量はわずか12台、塗装は後年のカスタムペイントです。お値段は12,995ドル、本日のレートで1,429,000円也。まさに「王様の身代金」ですね。ご興味のある方はこちらからご覧ください。
 
イメージ 1
 
 
この会社はどう始まったか?
パシフィク・ファースト・メールは1953年にビル・ライアン・シニアによって創設されました。彼は1964年に亡くなるまでPFM社の経営に従事し、会社は子息であるビル・ライアン・ジュニアに引き継がれました。若きビルは鉄道模型愛好家ではなかったものの、小売価格のコントロールに苦しみながらも、父親の志を維持しました。
 
ドン・ドリューは1966年の夏に、この会社を買い取りました。ドンは、航空宇宙産業に従事していたこと、鉄道を愛すること、という2つのバックグラウンドを組み合わせて、PFMを経営します。数年後、PFMはワシントン州エドモントにオフィスを構え、その後何年にも渡って、鉄道模型の世界にたくさんの創造的な製品を届け続けました。
 
ドンはビジネスを行なっただけではなく、多数の初期の日本のビルダー達と長きに渡る友好を築きました。これらの友好関係を通じてドンが得た経験は、業界内の多くの他社に影響を与えました。
 
今回、ドンは寛大にも、この本ができるまでは誰も知らなかったような、初期の日本製モデルについての洞察を提供してくれました。今日、パシフィック・ファースト・メールの名は、かつてのモデラー達が持っていたほど高級なイメージではなくなったかもしれませんが、以下の文章を読んでいただければ、おそらくブラスモデル史上、最も重要なインポーターがどういうものであったのかを、皆様にご理解いただけると思います。
 
以下はドン・ドリューが語った、スケール鉄道模型趣味のためのブラスモデル開発、さらに、その中でパシフィック・ファースト・メールが果たした役割の簡潔な歴史です。
 

 

第二次世界大戦前、日本はとりわけ低コストのアイテム、玩具、アクセサリー、花火、それからありとあらゆる雑貨について、米国と大規模な貿易を行なっていました。米国のインポーター達は、日本を、常に値下げを求めてくる顧客とって魅力的な、低コストアイテムの主要な供給元とみなしたのです。結果、日本は安かろう悪かろうの国、という評価を得ていました。
 
戦後、日本経済はよちよち歩きの状態にありました。日本人は世界が、日本をジャンキーな製品を調達する場、とみなしていることを知って、ショックを受けます。彼らに言わせれば、日本は海外の顧客が求めるものを作り続けていただけなのですから。そのため、日本政府と産業界は、国全体が守らねばならない非常に高い品質基準を設けることで、このイメージを逆転させる方針を打ち出しました。今日、われわれはその成果を、カメラ、エレクトロニクス、自動車、時計、タイア、実質的には日本から輸出される全ての製品について、みることができます。
 
しかしながら、第二次世界大戦後、日本には多数の家内工業従事者がいたにもかかわらず、その大きな労働力を生かせるような注文を受けることができませんでした。これらの職人は、英語を話すことができなかったため、彼らが作ることができる優れた製品のバイヤーをみつけることができなかったのです。
 
この中にあって、英語とスペイン語を流暢に話すことのできる三成善次郎は例外的存在でした。善次郎は日本語で「誇り高きサムライ」を意味します。実際、三成さんはそういうイメージを持っていました。第二次世界大戦前、三成さんは主に南米の顧客を相手に、大規模な輸出入業を行なっていました。彼はあらゆる種類の日本製品を南米の国々に輸出し、かわりに大量のスクラップメタルを仕入れていたのです。
 
戦時中、三成さんは彼の海外とのコネクションと活動によって、日本政府から疑いの目でみられます。ついに政府は彼の資産を没収し、彼は文無しになってしまいました。彼は家族とともに田舎の農村に退いて、細々と暮らしていくことを余儀なくされます。自動車は没収され、彼の唯一の移動手段は自転車でした。
 
自転車での帰路、彼は地元の警官に呼び止められます。着物の下に隠していたレタスの頭がみえていたのです。彼はそのレタスは、身籠っている妻のためのものであることを訴えようとするのですが、聞き入れてもらえません。レタスは没収され、三成さんは短期間拘留されました。
 
戦後、彼はその語学力を生かして、小さな家内工業的製造者を代理するようなビジネスを立ち上げます。三成さんは図書館に行き、ブリタニカ百科事典で様々な兵士を描いたカラー図版を探しました。ギリシャ、ローマ、十字軍、ナポレオン軍、第一次世界大戦等々。彼は金属製のミニチュア兵士のモールドをつくり、手作業で塗り、海外に提供できる職人を知っていたのです。その後、三成さんは真鍮でつくるミニチュアの船、飛行機、そしてついに、汽車をつくることのできる職人を見つけました。
 
1940年代後半、三成さんはミニチュア鉄道アイテムに興味を持つ、ニューヨーク市のインターナショナル・モデルズを見つけます。三成さんは彼の下請業者がブラスを主材料として作った、鉄道模型のさまざまなサンプルを送付します。
 
これに先立って、鉄道模型雑誌に登場していたブラスモデルは、メル・ソーンバーグやアーブ・ラングといった、ロコをブラスでスクラッチビルドする記事を書いた人達の作品に限られていました。1930年代後半と第二次世界大戦後、彼らは米国のコレクター向きにロコをカスタムビルドしましたが、ハンドメイドのオリジナルですから、これらのモデルは稀少で、当然ながら非常に高価でした。
 
当時、通常の米国鉄道模型メーカーは、ダイキャスト製のボイラーを使っており、牽引力を得るにはよいのですが、ディーティルはイマイチでした。マンチュア社のみが、真鍮製のボイラーを使っていました。三成さんとインターナショナル・モデル社によって、さらに細かいディーティルを持った量産ベースのブラスモデルが提供されることになったのです。
 
三成さんは科学実験セットからおもちゃの兵隊、果てはブラスモデルまでを提供する、アサヒ・サイエンティフィック・コーポーレションという会社を設立していました。さらにその後、三成さんはアトラス・トレーディング株式会社(米国のアトラス社とは無関係)という別の会社も作りました。
 
1940年代のおわりころ、インターナショナル・モデル社はブラス製の0-6-0「トッツィー・ローラー」等のロコや「欲望という名の電車」を提供します。1950年3月、インターナショナル・モデル社は、三成さんによって提供される様々な鉄道模型商品の全面広告を出しています。今、この時期の広告を見て興味深いのは、これらの模型が日本製であるという記載はどこにもありません。読者は、これらの模型の開発と製造は、米国にあるインターナショナル・モデル社の拠点でなされたと信じさせられたのです。
 
 
モデルレイルローダー誌1950年3月号に掲載された、インターナショナル・モデル社の広告
イメージ 4
 
 
 
その後、さらにOスケールの4-6-2が、そして4-6-4が登場します。どちらも、2レールと3レール・バージョンがありました。ついにブラス製のカブース、ゴンドラ、ストックカーが、続いてタンクカー、ボックスカーが登場します。インターナショナル・モデル社の広告では、読者に対して、モデル・レイルローダー・サイクロペディアの第5巻、6巻と比較することで、同社のブラスモデルがいかに正確かを確認して欲しい、と謳っています。
 
1950年代の初め、インターナショナル・モデル社は、天賞堂との関係を築きます。ケムトロン社も、1950年代の初めに、天賞堂の様々な鉄道模型製品を輸入し始めます。(天賞堂に関する興味深い記事について、「印鑑、鉄製品、時計、そしてブラストレイン-共通するものは何?」と題するコラムをご覧下さい)
 
 
私(訳者注:ドン・ドリューのこと)は実際、1953年4月に、韓国の釜山にあった海軍のホビーショップで、天賞堂の模型を始めて目にし、いくつかのFTディーゼルA&Bユニットを購入しました。
 
 
1953年、ビル・ライアンが鉄道模型シーンに登場します。彼はメールオーダー・ビジネスを立ち上げました。彼の最初の商品はカリフォルニア州モンタレーにあった、ジョン・アレンのゴーリー&ディフィーテッド鉄道の35㎜スライドでした。彼はカリフォルニア州フレスノにあるケムトロン社のレボン・ケマルヤン(訳者注:当初、天賞堂ブックにならってケマリンと記載していましたが、正しくはケマルヤンであるというご指摘をいただきましたので、訂正しました。すみません)の代理店となり、後に共同出資者になりました。ビル・ライアンは自宅のあるワシントン州ウッドウエイ・パークから、ケムトロンのパーツ、リンゼイのディーゼルとパワートラック、キャストブラス製で半組み立て済みの様々なディーゼルのキットを販売しました。
 
 
 
モデルレイルローダー誌195312月号に掲載された、ジョン・アレン撮影によるG&D鉄道カラースライドの小さな広告。どこにあるかわかりますか?
イメージ 2
 
1954年に、インターナショナル・モデル社のオーナーが、三成さんに日本を訪問すると伝えました。すでに数年間取引をしていたにもかかわらず、直接会ったことのなかった三成さんは不安を感じました。そのころ、アサヒ・サイエンティフィック社の売上は、1か月あたり約15,000ドルにのぼり、三成さんはこの唯一の顧客と良い関係が維持できなくなることを心配したのです。
 
彼のバイヤーがニューヨークから到着し、三成さんは4日間を費やして東京の名所を案内し、合間に天賞堂とミーティングを持ち、天賞堂の工場を訪問しました。しかしながら、三成さんのバイヤーはこう言い続けたのです。「あなたの工場に連れて行って欲しい。あなたの工場がみたい」。加えて彼は、「アサヒ・サイエンティフィック社のレターヘッドには、『輸出・製造業者』とあるではないか」と指摘しました。とうとう三成さんは、自身は工場を持っておらず、単にそれぞれの家で働いている個々の職人を代表しているだけだ、ということを認めざるを得ませんでした。インターナショナル社のオーナーは三成さんが工場を持っていないにもかかわらず、持っていると言ってきたことに憤慨しました。彼はさらに、天賞堂は実際に工場を持っており、彼の将来のモデルに対する全てのニーズに合致することを伝えました。要するに、三成さんは関係を打ち切られたのです。
 
三成さんはある種のパニックになりました。月額約15,000ドルのキャッシュフローは、彼を頼りにするいくつもの家族の生活を支えていたのです。彼はただちに、モデルレイルローダー誌の広告をみて、いくつかのホビーショップに手紙を書き、彼が提供できるサービスを紹介しました。受取人の1人がカナダのブリティッシュコロンビア州バンクーバーでヴァン・ホビーを営むフィル・クローレイでした。フィルは三成さんの手紙を友人であるビル・ライアンに転送し、興味があるかどうか尋ねたのです。
 
ちょうどそのとき、ビル・ライアンはケムトロンに出張中でした。その朝、ケムトロンは日本の天賞堂から少量の塗装済みのFTディーゼルA&Bユニットを受領していました。ビルはその出来の良さに魅了されたのです。
 
タイミングは完璧でした。美しい天賞堂モデルを見たビル・ライアンがPFM社に戻ったとき、そこで待っていたのは、米国の代理店を探しているという三成さんの手紙でした。
 
すぐに、ビル・ライアンはロギングエンジンの図面と写真をかき集めて、三成善次郎に会うために日本に飛びました。ビルは、三成さんがパシフィック・ファースト・メールに対してブラスモデルを独占的に製造・提供することに合意しました。最初の製品は、1955年に到着したロギングロコです。
 
195510月に発行された、PFMの第1版カタログにある2トラックシェイ。「PFMによって独占的に輸入・販売されるユナイテッドによる最初の量産ベースのシェイ」とあります。
イメージ 3
 
(その3に続きます)