かぼちゃん、、

まだ
認知症がでる
15年くらい前

聖書の
詩篇をよく
読んでいた。

おおきな窓のある
表に面したお部屋で
いまウチにあるダイニングテーブルで。

ここだと
あかるくて
椅子に腰掛けるとしゃんとするの
と。ハロウィン


きーちゃんが
小学生のとき両親から貰った
新約聖書詩篇つき(口語訳)。本
字が大きいので
これをよく使っていたもよう〜メガネ
赤いラインや小さなまるが付いてます。
詩篇23にもラインあり。

かえちゃんのくれた詩篇ガイドも参考に
なります〜

1  主はわたしの牧者(ぼくしゃ)であって、
 わたしは乏しいことがない。
2  主はわたしを緑の牧場に伏(ふ)させ
 いこいのみぎわに伴われる。

気持ちいい緑のまきばと
みぎわ(水辺)がうかびますにっこり

新約聖書はギリシャ語で
書かれたものですから
日本では翻訳されたものです。
古い順に
文語訳〜口語訳〜新共同訳〜新改訳、、

かぼちゃんが最初にふれたのは
おそらく文語訳。
暗唱していてなじみがあり
日本語のリズムがきれいー
とか
言ってた。
かぼちゃんの聖書の集まりで
晩年は新共同訳を使ってました。

文語訳の詩篇もみてみたいな
おもったら

古い讃美歌の本の後ろに
交読文として
詩篇もいくつか載っていました!

主はわが牧者(ぼくしゃ)なり、
われ乏しきことあらじ。
主はわれをみどりの野(の)にふさせ、
いこいの汀(みぎわ)にともないたもう。羊
…………

あらじ、たもう。。
すてきな日本語。
かぼちゃんは内村鑑三の求安録から
キリスト教をしるのですが
少女時代に読んだ外国文学からも
影響をうけています。
戦争時代のなか
思想家?の娘が明日には返してよっ
こっそり貸してくれた本を
読みあさりました。
そこには外国にある
キリスト教の考え方が自然とながれています。

かぼちゃんの死後
長崎の甥(かぼちゃんの姉の長男)からきた手紙。
清楚で理知的で
文学的センスをともった方という印象をもっておりますー
と。

かぼちゃんの
お祈りからもわかる
ことばをだいじにした
すてきなひと
だったな、、
あらためて
おもう。

また
かぼちゃんの祈りの
足あとをすこしずつ
たどっていきたいー

そんなことを
おもいました。