僕が清元に入門したのは昭和61年の3月。
高校2年の終わり、17歳の頃でした。

それから34年の月日が経ち、お世話になった師匠方もみなさんお亡くなりになってしまいました。

今回は、僕の稽古部屋に写真を飾っている「思い出の師匠たち」を3回に分けてご紹介します。

思い出の師匠たち…その1

まずは清元にとどまらず、歌舞伎を好きな方なら知らない人はいないであろう、清元の一時代を築いた偉大なる名人「清元志寿太夫師」。

劇場に響き渡る高く伸びやかな大きな声で、お客様のみならず役者さんから裏方さんまで、すべての関係者を魅了し
お人柄や小柄な風貌でみなさんに愛された師匠。
歌舞伎座に出演中は、一門の兄弟子と僕の3人が日替わりで出発前のお宅へ行き、師匠の声出しの三味線を弾かせていただいてました。
着替えのお手伝いをしていると、その胸板の厚さを見て、あの声量と音域に深く納得したものです。

思い出はここに書ききれないほどにたくさんあります。
僕とちょうど70歳違いの師匠。
満100歳でお亡くなりになるまでの10年ちょっと、大変お世話になりたくさんの事を学ばせていただきました。

そして、そのご長男の「清元栄三郎師」。

芸大時代の2、3年生時の清元担当講師でした。
その後、卒業前に「お前、この世界でやっていくなら俺のところに来なきゃダメだ」と言われ、通いの半内弟子となりました。
師匠が東京にいる間は歌舞伎があろうとなかろうと、とにかく毎日師匠のお稽古場へ行き、ほぼ一日を兄弟子の栄吉さんと3人で過ごす生活が5〜6年ぐらい続きました。
僕が俗世間から離れている「空白の数年間」です。
でもいま振り返ると、そんな環境の中でも必死にサボろうとしていた自分に呆れてしまいます。
とはいえそんな生活ですからほとんど自由はなく、この6年ぐらいは、阪神戦もよくて年1試合。
大好きな吉川晃司さんの新譜すら知らない日々。
サボろうとしてばかりいたけど、この数年間がなかったらおそらく今僕はここにいない…清元雄二朗は現在いないのではないかと思います。

栄三郎師匠の弟子になる前、僕がまず入門した師匠は「清元志佐雄太夫師」です。

本当ならいま現在もご存命で、まだまだたくさん一緒に色んな経験をさせていただきたかった。
艶のあるというか、色気のあるというか、耳に心に響くあの唄声。
そしてご自身が元々藤間流の舞踊家だった事もあり、臨場感ある台詞回し。
唯一無二の浄瑠璃でした。
お父様同様、その人柄も多くの方に愛され、舞踊家さん、役者さん、数多くのお弟子さんと、師匠の周りにはたくさんの笑顔が溢れていました。
優しいばかりではなく、時にはしっかり厳しく叱られたりもしました。
あまりに突然、この世を去られた師匠。
今年はそんな師匠の七回忌となります。

志寿太夫師と中村歌右衛門丈。
栄三郎師と中村富十郎丈。
志佐雄太夫師と松本幸四郎(現・白鸚)丈。

日頃からのお付き合いの中から生まれるお互いの信頼関係と築き上げた絆。
それがそのまま舞台に反映され、数多くの名舞台を作り、その舞台が未来へと受け継がれてゆく。

そんな関係に憧れ、夢見ていました。

その憧れの前には敵わぬ大きな壁が立ちはだかり、なかなか現実には叶う事は難しいのが現状です。
でも諦めたらそこで終わり。
険しい道でも、僅かな可能性に希望を持って
少しずつ打開していくしか清元に明日はありません。
僕一人でどうにか出来る事ではありませんが、力を合わせてくれる人を一人でも多く見付け、手を組み、ともに明るい未来を作っていきたいと思います。
清元の明るい未来のため、みなさんもお力添えをよろしくお願いいたします!