「現実の美禰子――絵に閉じ込められていない生身の美禰子もすこしだけ登場します。ここでも絵の構図や、描かれてるときの格好についてが述べられてますね。そして、それは美禰子の好みに因るとも書かれてます。この件はその後につづく変化しない者たちを強調するためにも思えます。また、この夫婦は第三の世界を象徴してるのかもしれません。前章の終わりに三四郎は故郷へ帰りました。それを僕は立ち退き場のような第一の世界へ引き戻る行為だと言いましたね。恋に破れ、三四郎は第一の世界に籠もるんです。そして、ふたたび帰ってきました。そこで絵になった美禰子を眺めるわけですが、生身の美禰子は既に第三の世界にいるんです。では、その後を読みましょう。二百九十二ページです。
『開会後第一の土曜の午過には大勢一所に来た。――広田先生と野々宮さんと与次郎と三四郎と。四人はよそを後廻しにして、第一に「森の女」の部屋に這入った。与次郎が「あれだ、あれだ」という。人が沢山集ている。三四郎は入口でちょっと躊躇した。野々宮さんは超然として這入った』
最後の部分は示唆的です。三四郎の躊躇と野々宮くんの超然ですね。しかし、この描写は必要でしょうか? いえ、漱石は必要と思ったのでしょうが『三四郎は入口でちょっと躊躇した』で終わりにしてもいいように思えます。どうでしょう? みなさんはどう思いますか?」
机のあいだを通り、高槻さんは教卓へ戻った。頬は少しだけゆるんでる。
「いやぁ、みんな下を向いちゃいましたね。だけど、これこそ正解のない問いですよ。こう書かれてるからといってそれが正しいとは限らないんです。まあ、当然に漱石の方が高い位置に立ってるのでしょうが、みなさんも書き手であることでは同じ場所にいるんですからね。――で、どうです? 誰か意見のある方はいませんか?」
「じゃ、俺が」
「新井田さんが? まあ、いいでしょう。では、聴かせてください」
「はい。ええとですね、もし自分が同じシーンを書くなら、やっぱりこの描写は入れますね。なぜっていうと対比にもなるし、三四郎の躊躇を強調できるからです。それに野々宮が美禰子の結婚をどう考えてるかもにおわせられますよね」
「なるほど。――って、新井田さんは僕が書いたのを読んでるんだから、それに沿ったことをすらすら言えるわけです。しかし、そうなんでしょう。この描写はあった方がいいんですね。対比と強調、それに野々宮くんの心情をあらわしてるんですから。さらにいうと後のシーンに奥行きをあたえてもいるんです」
ニヤついた顔で先生は教室を見渡してる。高槻さんは額に手を添えた。
「いえ、いまの質問をしたのには別の意味もあるんです。こんなふうに文章の存在意義を考えるのは書くことの訓練になるんですね。人が書いたものであっても、なぜこの文章を入れたのか、もしくはどうしてこのように書いたのか考えるのは重要なんです。自分のであれば冗長になってないか、言葉足らずになってないかチェックすることもできますしね。――では、つづきを読みましょう。この後には広田先生と野々宮くんの会話が出てきます。ここは菊人形の件を思い出させますね。あのときも二人は菊の培養法なんかを話してました。それと似たことをここでもしてるんです。対象へ向ける視線が研究者のものなんですよ。そうなると、よし子の言葉も思い出されます。ええと、ここでした。百十四ページにこうあります。
『研究心の強い学問好きの人は、万事を研究する気で見るから、情愛が薄くなる訳である』
この文章は前にも言いましたね。野々宮くんが恋愛の対象者として向いてないと言ったはずです。とはいえ、感情は別です。彼はきっと美禰子が好きだったんでしょう。まあ、リボンをあげたりしたのですから、すくなくとも興味は持っていたのだと思えます。ただ、これも前に言いましたが二人の視線はかみ合ってなかったんですね」
軽くうなずき、高槻さんはノートを手に取った。目は教室の奥へ向けられている。
「さっき新井田さんはこう言ってましたね。『野々宮さんは超然として這入った』という文章には美禰子の結婚をどう考えてるかがにおわされてると。まあ、そうなんでしょう。絵はライフサイズで描かれてます。つまり『尤も美しい刹那』に閉じ込められた美禰子が部屋にいるわけです。三四郎が躊躇するのもわかります。一方、野々宮くんは超然としてるわけです。これといった心の動きをみせずに対面してるんですね。では、どうしてそうも平然としていられるんでしょう? そうですね、これは落合さんに訊きましょうか。野々宮くんも三四郎同様に振られた直後なんですよね。それなのに美禰子の絵が目の前にあるんです。触れることのできない絵だけがです。それでも超然としていられるものでしょうか」
顎を引き、私は脚をきつく閉じた。眼鏡越しの目は細められている。
「あの、その前に訊きたいことがあるんですけど、」
「ああ、なんでしょうか?」
「野々宮くんは美禰子に興味を持ってはいたけど、結婚したいとまでは思ってなかったってことですよね?」
「うん。まあ、そうでしょう。それで?」
「なんでそうだったかわからないんです。好きなら、もっと気持ちを出せばいいじゃないですか。リボンをあげたり、一緒に出かけたりしてるのに野々宮くんはちゃんと関わってないですよね。それがどうしてかわかりません」
私は胸を押さえていた。風が吹き、毛先を気づかぬ程度に揺らした。
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