「ところで、評論なんかにはよくこのように書かれてます。『三四郎』で提起されたテーマがその後につづく『それから』や『門』で押し広げられているとです。以前すこし話しましたが『それから』では叶えてはならぬ恋が描かれてました。それを考えると評論に書かれてることはその通りに思えます。そして『三四郎』は叶わぬ恋を前提に、それに煩悶する青年の物語といったところになるのでしょう。だけど本当にそうでしょうか? いえ、そういう部分もありますがそれだけの話なのでしょうか? 僕はそう思いません。なぜかというと美禰子がいるからです。彼女の描かれ方が『三四郎』をただそれだけの話から抜き出たものにしてるんです。それを踏まえて美禰子が最後に言う台詞――『われは我が愆を知る。我が罪は常に我が前にあり』を考えてみましょう。そのすこし前から読みます。二百八十八ページですね。
『やがて唱歌の声が聞えた。賛美歌というものだろうと考えた。締切った高い窓のうちの出来事である。音量から察するとよほどの人数らしい。美禰子の声もそのうちにある。三四郎は耳を傾けた。歌は歇んだ。風が吹く。三四郎は外套の襟を立てた。空に美禰子の好な雲が出た。
かつて美禰子と一所に秋の空を見た事もあった。所は広田先生の二階であった。田端の小川の縁に坐った事もあった。その時も一人ではなかった。迷羊。迷羊。雲が羊の形をしている。
忽然として会堂の戸が開いた。中から人が出る。人は天国から浮世へ帰る。美禰子は終りから四番目であった。縞の吾妻コートを着て、俯向いて、上り口の階段を降りて来た。寒いと見えて、肩を窄めて、両手を前で重ねて、出来るだけ外界との交渉を少くしている。美禰子はこの凡てに揚がらざる態度を門際まで持続した。その時、往来の忙しさに、始めて気が付いたように顔を上げた。三四郎の脱いだ帽子の影が、女の眼に映った。二人は説教の掲示のある所で、互に近寄った』
病院で会ったシーンを思い出しますね。絵画的です。これは細かな描写を切れ目なく置いてることに因るのでしょう。その前には三四郎の心情というか記憶が挿し挟まれています。ここは素晴らしいですね。『迷羊』を効果的に置いてます。この言葉には重層的な意味があるわけですが、それを記号のように使ってるんですね。ふと立ちどまってしまうような文章です。そして、この後に三四郎は借りていたお金を返します。ただ、これにも重層的な意味があります。前にも言いましたが、このお金には物質以上の意味があるんですね。このように小説の終結部というのは前に置いた言葉の回収作業のようなことが行われます。逆にいうと終結部に繋げられるような言葉を置いてるかが問題になるんです。これが上手に出来ると物語は締まります。読み手からすれば納得できるんですね」
眼鏡の位置を直しながら高槻さんは口許を引き締めた。瞳だけが動いてる。
「いま言ったことは理解できますか? すこしばかり言葉足らずじゃなかったでしょうか。うん、そうだな、柳田くん、きちんと理解できましたか?」
「はい、なんとなくわかったように思えますけど、」
「わかったように思えても納得はいきませんか? そういう場合は人に説明できるか考えるといいですよ。どうです? 説明できそうですか?」
「ええと、どうだろう? ――いや、難しそうですね」
「では、もうすこし話しますね。『三四郎』においては幾つかの言葉に重層的な意味がつけ加えられてました。たとえば『ストレイ シープ』なんてのはその最たるものでしょう。これは菊人形を見にいったシーンで出てきた言葉でしたね。自分たちを『大きな迷子』と言った後で美禰子は『迷子』と繰り返します。で、その英訳を三四郎に教えるんです。それが『ストレイ シープ』なわけですが、こうまで段階を踏み、何度も繰り返されたことによって、この言葉には通常以上の意味がつけ加えられているんです。まあ、それがいったいなんなのかは明確にされてませんが『迷子』より以上を感じさせるものになってるのは確かなことです。それを漱石は終結部に何度も登場させてます。これは効果を狙ってのことなんですね。物語全体を集約させるような言葉を前もって入れておき、それを回収してるんです。さらに言うと、その意味を明確にしないのもテクニックのひとつなんでしょう。たとえばですが三四郎に『ストレイ シープ』とは恋に迷った美禰子自身を指し示す言葉であったのだとか、社会状況的にこの頃の女性はすべて迷う存在なんだなんてふうに語らせたら読み手の腑に落ちはするけど面白くないですし、全体を覆うぼんやりした雰囲気を壊しかねません。ここは何度か繰り返し置くことで強調するくらいがちょうどいいんです。――と、このようにキーとなる言葉を仕込んでおくと物語に統一した色調をあたえられます。難しいかもしれませんが頭に入れておいた方がいいですよ」
高槻さんは本を捲った。合奏の音が聞こえてる。それは硬い殻の奥から響くようにくぐもっていた。
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