深く息を吐き、高槻さんは腕を組んだ。額には汗が浮きあがっている。
「というところで『三四郎』へ戻りましょう。演芸会のあいだ三四郎は美禰子を探してます。これは運動会のときと似てますね。群衆の中にいる美禰子を遠くから見つめるというのは菊人形のときにもありました。しかし、このときの心情はかなり複雑なものに思えます。彼は美禰子の横に座る男を気にしてました。ただ、それが野々宮くんとわかっても反応が薄いんです。そういえば、かなり前に『自分は美禰子に苦しんでいる。美禰子の傍に野々宮さんを置くとなお苦しんで来る』というのがありましたね。でも、このときはそうなりません。ここには決定的な破綻を嫌いつつも知らずにはいられない心持ちがあるように思えます。では、横にいるのが誰だったら納得したのでしょう。それはこの部分に出ています。いえ、これまた複雑な心境をあらわすように書かれてますけどね。読みますよ。二百七十八ページです。
『幕がまた下りた。美禰子とよし子が席を立った。三四郎もつづいて立った。廊下まで来て見ると、二人は廊下の中ほどで、男と話をしている。男は廊下から出入りの出来る左側の席の戸口に半分身体を出した。男の横顔を見た時、三四郎は後へ引き返した。席へ返らずに下足を取って表へ出た』
三四郎は予感を持ってたんですね。破綻の予感です。そうでありながら美禰子の横にいるべき人物を探していたんです。そしてそれを目の当たりにすると逃げ出したんですね。この後はこうつづきます。
『本来は暗い夜である。人の力で明るくした所を通り越すと、雨が落ちているように思う。風が枝を鳴らす。三四郎は急いで下宿に帰った。
夜半から降り出した。三四郎は床の中で、雨の音を聞きながら、尼寺へ行けという一句を柱にして、その周囲にぐるぐる低徊した。広田先生も起きているかも知れない。先生はどんな柱を抱いているだろう。与次郎は偉大なる暗闇の中に正体なく埋っているに違ない』
ここにも広田先生の名が出てますね。しかもハムレットの台詞とともにです。これもヒントとみていいのでしょう。このように一つのものへ幾つかの意味を重ねる書き方は難しいのですが、それを漱石は何度もしています。しかし、それについては休憩を挟んでから話します。ええと、十分後にまたはじめましょう」
高槻さんが出て行くと未玖は腕をつかんできた。
「ね、なにかあった?」
「え?」
「なにかあったんでしょ。でなきゃ、」
そう言いかけた顔は急に強張った。目は細められている。
「なに?」
「いや、ちょっと落合に訊きたいことがあって」
「ふうん、そうなの。だけど、今ちょっと大切な話をしてたとこなの。だから後にしてもらえる? こっちが先だったんだから」
「あ? ああ」
戻る背中を睨みつけ、未玖は立ちあがった。
「外に出よ。ここじゃマトモに話せないわ」
上の階へ行き、私たちは窓際に並んだ。欅が廊下に濃い影を落としてる。
「で、なにがあったの?」
「なにもないわよ」
「嘘。なにもないなんて考えられない。ほら、ある人と話しててどうだとか言ってたじゃない。あれって結月のことでしょ?」
未玖は覗きこんできた。雲の隙間には真昼の月が浮かんでる。
「ちょっとは仲良くなれたんでしょ。そういう顔してる」
「そう?」
「違うっての? それによく見つめ合ってたもんね。なんだか意味深な感じに。でも、どういうこと? 母親がどうのこうの言ってたじゃない。あの二人って仲のいい親子にしかみえないんだけど」
なにもこたえずにいると未玖は鼻を鳴らした。奥のドアからは合奏の音が聞こえてる。
「なによ、言いたくないっての? ま、いいけど。ところでさっきからなに見てんのよ」
「あれ」
「あれ? ――ああ、あれか。ま、あんな在るんだか無いんだかわからないもん見てるってことはなんらかの進展があったってことでしょ。ね、泥亀にいろいろ言ってたのもその為っていうか、まあ、そういうことなんでしょ?」
「たぶんね」
「それにしたって、そうとうキツく言われてたわね。いい気味だけど」
聞いたことのある旋律が流れてきた。しばらく耳を澄まし、私たちは顔を見合わせた。
「『ロミオとジュリエット』」
「これも懐かしいわね。――って、そろそろ戻ろっか」
「うん」
階段を降りながら未玖はスカートをばたつかせた。頬は薄くだけ染まってる。
「なんだかね、まだ挟まってる気がするの。あの太さでこうなんだから子供産むのって死ぬ苦しみだと思うわ。だけど、私たちもそうやって生まれてきたってことよね。そういう部分だけは親に感謝しなきゃだわ。そう思わない?」
目は自然とゆるんでいった。なにが言いたいかわかったのだ。
「未玖?」
「ん?」
「ありがと。ちょっとはそう思える」
笑顔で振り返ると未玖はうなずいた。
「ま、なんてったって経験者だからね。結月よりだいぶ大人になったってことよ」
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