「こんな重要なサインを見落とすなんて、ほんとどうかしていたんですね。何度も読んだというのに恥ずかしい限りです。で、ハムレットです。読んだ方もいるかもしれませんが少し話しますね。ハムレットの母親は自分の夫を殺した男、それも義理の弟だった男と再婚します。ハムレットにとっては父殺しの叔父が新しい父親になったわけです。それをこのシーンで持ち出したのは母親の裏切りを示してると思うんです。ただ、漱石は具体的な話をさせることでそちらへ意識を向けています。読み手にはそっちの方が重要に思えてしまうんですね。しかし、ハムレットを抜かして考えると理解が浅くなるんです」
高槻さんは顔を向けてきた。それはみんなも気づいていただろう。ただ、私はじっと見返していた。
「間違ってるかもしれませんよ、これは僕がそう感じただけのことですから。しかし、ハムレットはこの章にも出てきましたね。二百七十七ページにこうあります。
『三四郎はハムレットがもう少し日本人じみた事をいってくれれば好いと思った。御母さん、それじゃ御父さんに済まないじゃありませんかといいそうな所で、急にアポロなどを引合に出して、呑気に遣ってしまう。それでいて顔付は親子とも泣き出しそうである』
この部分はまさに母親の裏切りを示してるように思えますね。そのすぐ後には広田先生にも言及しています。
『ハムレットがオフェリアに向って、尼寺へ行け尼寺へ行けという所へ来た時、三四郎はふと広田先生のことを考え出した。広田先生はいった。――ハムレットのようなものに結婚が出来るか』
これらの文章をどうして置いたのかを考えると、いや、演芸会の演目を『ハムレット』にしたのも含めて考えると、こちらの思いつきは正しいように思えますね。広田先生がずっと独身でいるのは母の裏切りを知ったからだと。また、このようにも考えられます。『ハムレット』には有名な台詞が多いのですが、その中に『弱き者汝の名は女なり』というのがあります。これは美禰子にも通じてるように思えます。三四郎と野々宮くんの間で揺れ動いていた彼女は第三の男と結婚します。それを単純に心変わりといっていいかは別にして、彼女が社会構造的に弱い立場であったのを示してるようにも思えるんです。――いや、変なことを言ってしまったようですね。ただ、僕の方はそれほど深刻じゃないんです。一生独身でいようとも思ってませんしね。それだけ広田先生は真面目であり、僕はいいかげんなんですよ。そのいいかげんさが理解不足を呼んだのかもしれませんが、それだけでなく、きっと経験が目を曇らせていたのでしょう。小説は読む者の状態によって変化します。とくに優れた小説は読むたびに新しい発見をあたえてくれるんです。僕の場合は自分と似通った経験をした人と話すことで曇りがとれたんです。その人には感謝しなきゃなりませんね。なにしろ十五年以上も引っかかっていたことを溶かしてくれたんですから」
首を振り、高槻さんは教卓へ戻った。頬は平面になっている。
「では、このことをどう創作に活かせるか考えましょう。これはあくまでも創作に関する講義ですからね。というわけで、また経験と想像の話をします。たとえば僕が経験したこと、さっき口走った出自に関する謎のようなものを書くとしましょう。その場合どのように書くか考えてもみたんですね。ただ、どうもうまくいかないんです。まして他者について書くなんて不可能です。これもたとえば自分の母親について書きたく思ったとします。だけど、やはり失敗してしまうんです。ある部分は大きくなりすぎるし、他の部分は小さくなるか頭に浮かびもしないんですね。しばらく考えた後で、ああ、あれも書かなきゃなって思うんですよ。ただそうなると前のものとの整合がとれなくなるんです。みなさんも考えてみてください。誰でもいいので身近な人を正確に描写できるかですよ。作文ではなく、日記でもなく、小説としてです。そうですね、じゃあ、目をつむって誰かひとりを思い描いてください」
目をつむってると周囲の音が高く聞こえた。肌にあたる弱い風もわかった。私は暗闇の中に普段考えないようにしてることを映しだした。それは歪み、黒ずんでいて、不快な印象でしかなかった。
「どうでした? うまくいきそうですか? では、自分自身についてはどうでしょう? 書けそうだというならそれでもいいんですよ。僕はみなさんに限界を設けたいわけじゃありませんから。――でも、どうです? 他者であれ、自分であれ、うまく書けそうだと思った方はいますか? まあ、あんなのを聴いた後じゃ自分にはできますって言い出しにくいですよね。そうだな、堀田くんはどう思いました?」
「え、あ、はい。ちょっと難しいなと思いました」
「どういうところが難しいと思いましたか?」
「あの、自分のことだと書きたくないって思うとこもあるし、人のことはよく考えてもわからないので」
「なるほど。では、横森くんはどうでしょう?」
「僕も無理ですね。理由は堀田のとだいたい同じです。自分をそこまでさらけ出したいとは思わないですもん」
「そうですか。じゃあ次は篠田さんに訊きます。どうですか? 君は経験してないことを書こうと奮闘してるとこですが」
決まり悪く思ったのだろう、未玖は顎を引いている。ただ、思い切ったようにこうこたえた。
「私も無理です。っていうか、あまりそういうのしたくありません。だって自分のこと書いたって面白くないですもん。もっと、こう、自分じゃ経験できないようなのを書きたいって思ってます。まあ、経験も重要だとは思うんですけど」
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