「はじめてこの文章を読んだとき、僕は薄くだけ絶望を感じました。三四郎の言った『あなたに会いに行ったんです』が『I love you』であれば、この溜息はそれにたいする拒絶の返答ということになるんですからね。あるいはさっき落合さんが指摘したようにいまさら遅いというのを示したともとれるでしょう。まあ、いずれにしても漱石はこのように間接的な表現で最も重要なシーンを書いたわけです。しかし、このすこし後にはこういう会話をさせています。
『「そら、あなた、椎の木の下に跼がんでいらしったじゃありませんか」
「あなたは団扇を翳して、高い所に立ていた」
「あの画の通りでしょう」
「ええ。あの通りです」
二人は顔を見合わした。もう少しで白山の坂の上へ出る』
この会話は広田先生の引っ越しのときに交わされたものと対になってるように思えます。それと同時に読み手に回顧させてるんですね。物語の時間を遡らせる仕掛けともいえるでしょう。また、緊張をゆるめる効果もあります。上げて下ろすといった感じです。いや、叩き落とすためにいったん持ち上げたという方がいいかもしれませんね。二人の過ごした時間をふっと目の前に出し、気をゆるませた上で破局を用意してるんです。直後にはこう書かれてます。
『向から車が走けて来た。黒い帽子を被って、金縁の眼鏡を掛けて、遠くから見ても色光沢の好い男が乗っている。この車が三四郎の眼に這入った時から、車の上の若い紳士は美禰子の方を見詰めているらしく思われた。二、三間先へ来ると、車を急に留めた。前掛を器用に跳ね退けて、蹴込みから飛び下りた所を見ると、脊のすらりと高い細面の立派な人であった。髭を奇麗に剃っている。それでいて、全く男らしい』
第三の男があらわれましたね。これが推理小説であれば壊滅的な展開でしょう。これまで三四郎と野々宮くんの間で揺れ動く美禰子を見せられてきて、そのどちらかと結ばれるだろうと思っていた者がいたなら完全なる裏切り行為ですからね。しかし、この小説はこれでいいんです。これ以外の結末は考えられません」
ノートを閉じると高槻さんはしばらく黙った。風が教室を吹き抜けていった。それを追うように首を曲げている。
「そう、この小説はここで終わりなんですね。この後はエピローグといっていいでしょう。そういえば、だいぶ前に僕はこう言いました。美禰子は様々な理由によって素直になれない。それで彼女は無意識に演じてると。それが三四郎には謎だったんですね。その謎というのは美禰子の自然な部分と演技をしてる部分とのブレによって生まれていたんです。ただし、あくまでも彼女は同一の人物であって、丁寧に読み込んでいけば底流として存在してる感情を知ることができるんです」
ふたたび本を取り、高槻さんは教卓を離れた。ページを繰りながら窓の方へ向かってる。
「原口さんの台詞にこういうのがありましたね。
『画工はね、心を描くんじゃない。心が外へ見世を出している所を描くんだから、見世さえ手落なく観察すれば、身代は自ら分るものと、まあ、そうして置くんだね。見世で窺えない身代は画工の担任区域以外と諦めべきものだよ。だから我々は肉ばかり描いている。どんな肉を描いたって、霊が籠らなければ、死肉だから、画として通用しないだけだ』
ここは逆説的ではあるけれど漱石の態度表明ともとれます。小説家は登場人物の心を書くものですが、どうでしょう? この『三四郎』に美禰子の心はあらわれてましたか? 三四郎はたまに心情吐露をしてましたが、それ以外の人物にそれは無いか少なかったでしょう。そして美禰子に関してはゼロに近かったはずです。それは書き方に因る部分もありますが、僕は敢えてそうしたんだと思うんです。美禰子については表層的な言動だけを書き、心を隠してるんですね。だから彼女には謎が残るんですよ。ただ、今も言いましたが底流として存在する感情には一貫性があるんです。けっして場当たり的に動いてるんじゃないんですね。原口さんが『霊が籠らなければ、死肉だから、画として通用しないだけ』と言ってるのも、逆説的に漱石の自信や自負を示してると思うんです。まるで『さあ、すべて書いてあるぞ。それがお前たちにわかるか?』と言われてるようです。そして、三四郎にもそう言ってるのでしょう。『美禰子の心がわかるか?』とね。しかし、この時点の三四郎はそれを知ることなく、あるいは知ろうともせずに二人の間にあった幕を裂き破ろうとしました。しかも、そのアクションは遅すぎたんですね。三四郎も読者も知らぬうちに第三の男が美禰子を連れていってしまったんですから」
加藤さんは顔を仰向けている。それに気づいたのか高槻さんは微笑みかけた。
「この後にはその男が何者かというのが書かれてます。それこそ推理小説ではありませんが漱石はきちんと伏線を張っていたんです。ま、それがわかったからといってなんのことはないですけどね。それにこの告白シーンを第一の終幕とすると、第二のものといえるシーンも描かれています。美禰子との最後のお別れってことです。ああ、それとこの小説における唯一の事件というべき広田先生を教授にする運動の顛末もですね。ということで、今日はこれで終わりにしましょう」
私はノートを見つめていた。走り書きした中には『あなたに会いに行ったんです = I love you』というのがあった。その他には『薄い幕のようなものを裂き破りたい』とも書いてあった。
「ね、結月」
「なに?」
「またあんたのこと見てたわ。じとっとした目つきで。なんていうの? 思い詰めたって感じ? まったく、ほんとぐちゃぐちゃしてるわ。これは結月がはっきりしないからよ。男が絡むと急に臆病になるっていうか、ずるずるさせちゃうんだから。ま、私はもう行かなきゃならないから適当に頑張って。二時に渋谷で待ち合わせてんの。服買うから一緒に見てくれって言われてんだ」
バッグを肩にかけ、未玖は見下ろしてきた。
「ね、あんた、突然告白とかされたらどうする気? なんだかそういう目つきしてるもん」
「まさか」
「わかんないわよ。告白シーンなんて読んだ後だから気持ちが高まっちゃって思わず口走っちゃうかも。――って、ちょっと、こっちに来る。やだ、ほんと変な目つきしてるわ」
未玖は首を引いている。ただ、肩の力を抜き、首を振ってみせた。
「亀井、どうもよくないわ」
「は?」
「あんたの表情よ。それは職質を受けちゃう顔だわ。バッグにナイフ隠し持ってるんじゃないかって目してるもん」
「なんだよそれ」
「だって、ほんとにそういう顔してんだもん。――もう、しょうがないなぁ。私が駅までついてってあげる。職質されないようにね」
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