「もし、それが本当だったとして、彼女はどうして僕のことを思いつづけてるんですか?」
「その人はあなたと別れてからひどい病気に罹ったの。もう四年も入院してるわ。そこでずっとあなたのことを考えてる。――山崎美早紀さん。そういうお名前よね? 彼女は自分の命が保たないのを知ってるわ。思い出すことといえばあなたのことばかり。別れたのを後悔してるのよ。でも、生きられないのを知ってるから頼ろうとはしてないわ。あなたがどんな性格かよくわかってるんでしょうね。連絡すればあなたは彼女のもとに行くでしょう? それじゃいけないって思ってるのよ」
そこで母親は目をあけた。顎を引き、唇を歪めてる。
「ただし、その思いが彼女を生き霊にしてるわ。理屈でわかってても感情は押しとどめられないの。あなたの周囲から女を排除したいと思ってるし、自分が死ぬときは一緒に死んでもらいたいとさえ願ってるのよ」
僕は奥歯を噛んだ。その瞬間に涙が溢れ出た。名前を耳にしたときから用意されていたのだ。それと同時に、無性に腹がたってきた。
「たとえ今のが本当だったとしても、それですべてが説明できても、やっぱり信じられない。僕には見えないんだ」
母親は指を向けてきた。表情は抜け落ちている。
「肩に痣ができてるはずよ。それは後ろからつかんでる形になってるでしょ? あなたには目に見えることまで起きてるの。それは非常に危険な徴候だわ」
「ライターがなくなったことで力は弱まったんじゃないんですか? これは今あなたが言ったことだ。矛盾してますよね? それなのにどうして変な痣ができるんです? これは美早紀の手なんかじゃない。どこかにぶつけたかしたんだ」
「理解したかったんじゃないの? 自分の身に起こってることを、その本当の意味をあなたは曲げようとしてるのよ。受容しなくちゃならないわ。ありのままの事実をありのままに受けとらなければならないの。そうできないならもっとひどい状況に陥ってしまうわ。これは可能性の話じゃないの。そうなってしまうの。――あまり言いたくないけど彼女はもうそろそろ死ぬのよ。自分でもそうとわかってるの。だから、最期の力を振りしぼってあなたを連れていこうとしてるの」
「それだってあなたが言ってるだけのことだ。僕に彼女は見えないし、理解できない。いや、話として理解できても納得はできない」
「あくまでも見えないことは信じられないと言うのね? いいでしょう。では、すこし違うことを話すわ。理解してもらえるといいんだけど」
母親は顎を反らした。背中を押しつけ、手を組み合わせている。
「いい? あなたが見てるものは、あなたの目に映ってるものだわ。目でとらえ、脳で判断し、記憶と擦り合わせ、たとえば、あれを木だと判断する。でも、それはあなたの目よ。私のではないわ。あなたの脳も私のとは違う。記憶だってもちろんそうでしょう?」
僕は観葉植物を見た。怒りは急速に萎み、悲しみだけがひりひりと残っていた。
「それでも木は木だ。僕が見ても、あなたが見ても木であることに変わりはない」
「ほんとうにそうかしら?」
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