この長い話もそろそろ終わりに近づいている。
FishBowlの取り壊しが決まったのは僕たちがそこを出てから五年後のことだった。
それまでのあいだ僕と温佳は互いのアパートを行き来していたけど一緒に暮らしてはいなかった。その場所がある限り、いずれ戻れると思っていたのかもしれない。
まあ、二人ともに忙しかったのもある。
温佳はジャズピアニストとして「ドサ回り(温佳の言葉だ)」を繰り返していたし、僕の方は大学を出てから幾転変があった。
吉澤マサヒロの紹介でとりあえずの職を得た僕はしばらく写真だけで生計をたてようとしていた。しかし、それはなかなかうまくいかず、かつて吉澤マサヒロがそうしていたように結婚式や運動会なんかの撮影をしながら、その合間に自分の写真を撮るという生活をするようになった。
彼より恵まれていたのは田中和宏の劇団や温佳のバンドの写真を撮る仕事があったことくらいだ。
もちろん僕には父さんの遺してくれたものがあった。ただ、できる限りそれに手をつけたくなかった。父さんみたいにとまではいかないまでも自分の力で乗りきっていきたかったのだ。
けっきょくは大学時代の友人であるトシがデザイン関連の会社を立ち上げるときに出資して(当然、その金は父さんの遺したものだけど)そこで働くことになった。
仕事の内容といえば、前にも書いたようにポスター制作や雑誌に載せる写真の提供といったところだ。
タウン誌からの依頼が一番多く、だから、僕は様々な場所に出没しては路地にうずくまる猫や小鳥たちの写真を撮ったりしている。
それでも、またしてもその合間に自分にとって必要と思える写真を撮りつづけていた。
僕にとって必要な写真というのは、家々とそこに住む人々の写真だ。
移動中に気になる家があると僕はそこの呼び鈴を押し、「すみませんが、こちらのお宅と、できればご家族の写真を撮らせてもらえませんか?」と言って歩くようになった。
多くの家ではドアを開けられることなく断られてるけど、中には快く(かどうかはわからないものの)応じてくれる家族もいる。僕は慎重にその家を撮り、玄関前に並んでもらった家族の写真も撮る。現像したものは送るようにしている。
そして、「できれば来年も同じように撮らせてもらえると嬉しいんですけど」と言う。これも、中には快く応じてくれる家族はいるのだ。
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