その男は井田隆徳といって、僕たちのボディガードとして真昼ちゃんが連れてきたのだった。朝晩僕たちの送り迎えをし、真昼ちゃんの買い物についていき、FishBowl周辺のパトロールをしていた。
彼は吉澤マサヒロが住んでいた居住棟に潜りこみ、そこで暮らしはじめていた。たくさんの本とさほど多からぬ荷物、オンボロのフォルクスワーゲン・ビートルが彼の持ち物のすべてだった。
あと、持ち物とはいえないけど、その出現とともにFishBowlにもたらされたものがあった。二匹の猫だ。彼はその猫たちをシニフィアン、シニフィエと名づけていた。シニフィアンは真っ白い猫、シニフィエはハチワレで靴下を履いてるように四つの肢先が白かった。
井田隆徳は小説家ということだった。
そういった意味では、若い芸術家を住まわせるというFishBowl当初の目論見に合致した人間といえた。しかし、もう何年も書いてない(すくなくとも出版されていない)小説家だった。
唯一といっていい作品は『予定調和の猿は要らない』というハードボイルド小説で、それもあまり売れたわけではなかった。真昼ちゃんによると彼は「新しいスタイルを確立する途中」であり、「非常に素晴らしい家族的物語を書いてる途中」ということだった。
ただ、彼はこれから先何年にも亘って「~の途中」という場にいつづけることになった。どのようなものであっても最後まで書きあげられなかったのだ。
井田隆徳が住むことについて、父さんと真昼ちゃんの間に少なからぬ議論があったのを僕はだいぶん後に聴いた。父さんは真昼ちゃんが自ら定めたルールを破ったといって腹をたてていた。
『恋愛沙汰は全部外でやっておくこと。ただし、結婚するのであれば、きちんとした手続きを踏んでするぶんにはオーケー。もしくは子供たちがそういう状態を受け容れられる年齢になったら解禁』というのが真昼ちゃんが定めたルールのひとつだった。
『きちんとした手続き』というのは『子供たち(つまり僕と温佳のことだ)』が納得するということであり、なおかつ結婚を前提としていなければならなかった。結婚する気もないような相手を引っ張り込んで、これ以上の混乱をあえて招く必要はない――というのが真昼ちゃんの意見だったのだ。
だから、というわけではなかったかもしれないけど、父さんも恋人と会うのはすべて外でだった。
僕はシゲおじさんやゴンちゃんなんかから父さんに恋人がいるとにおわされていた。それも、いろんな話を総合すると、その相手はひとりではないようだった。
もしかしたら、そのうちの誰かが新しい母親になるかもしれないとシゲおじさんたちは吹きこんでもきた。でも、しばらくすると「あれは駄目になったみたいだ」と言ってきた。そういうのはFishBowlに住む前からたびたびあった。
ごく希にマスコミの連中がそれを嗅ぎつけ、記事にしようとしたこともあったらしいけど、父さんはかなりうまくやっていた。絶対に口を割らない相手としかつきあわなかったのだ。
父さん自身は僕にすら口を割らなかった。ただ、僕にしたところで母親擬きみたいなのには興味がなかった。なにしろ実の母親にたいしてすら興味をあまり持ってなかったのだ。
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《僕が書いた中で最も真面目っぽい小説
『Pavane pour une infante defunte』です。
どうぞ(いえ、どうか)お読みください》