周は半分だけ口をあけた。なにか言いそうで、しかし、なにも言わなかった。軽く首を振ると、椅子にもたれかかった。つかまれた腕だけが伸び、テーブルに残された。
「あの日、俺たちは飲みに行った。それまでは俺もちゃんと気づけてなかった。もしかしたら、――いや、たぶんそうなんだろうけど、前からそうだったんだ。俺たちが見ないようにしてただけだ。高校一年のとき、ほら、発表会のときに美以子が大声出したことあったろ? あの頃からそうだったんだよ、きっと」

 

「信じられない」
 首を振りながらそうとだけ周は言った。
「俺たちは昔のことを話してた。それまでは普通にみえた。目つきは気になったけど、疲れてるんだろうって思ってた。でも、突然様子が変わった。美以子はお前が自分をおいていってしまったって言った。私は周くんのことが好きだったのにとも言ってたよ」
「嘘だ」
 そう口にしてから周はなににたいして「嘘」と言ったのかわからなくなった。幾つかの光景が頭に浮かんだ。プール、図書館、土手を歩く三人。

「嘘だ」
 周はもう一度言った。
「嘘じゃない」
 強士は手を離した。深く椅子に腰をしずめさせ、天井を見た。蛍光灯は輝く一本の線のようにみえた。
「美以子は大声を出した。あの発表会のときと同じだった。それから、立ちあがってグラスをテーブルに打ちつけた。なにをしているかわかってないみたいだった。自分でもそう言ってたよ。なにをしたのかわからないってね」
「嘘だ」
「周――」

 雲が切れてきたようだった。大きな窓を通して射しこむ光は二人の影を床に伸ばしていた。影は足許の方が濃く、頭の方は薄く滲んでいた。強士はそれを見て、あたりまえのことだよな――と思った。こんなにも自明なことに囲まれているというのに、どうして俺には理解できないことが多いんだ?
 周はかたく口を閉じた。言いたいことがあるはずなのに、どんなふうに言えばいいかわからなかった。深刻さが覆っていった。彼はそれに立ち向かおうとした。しかし、怒りが途切れると目を背けたくなった。

「俺たちは騎士だ。美以子を助けなくちゃならない」
 強士はかすれた声でそう言った。
「キシ?」
 周は身体を起こし、髪をかき上げた。
「なに言ってんだ?」
「周、これはお前が言ったことだ。忘れたのか? 中学の頃だ。美以子が真田沙織に連れ出されて――」
「ああ、」
 語尾を伸ばすようにして、周は考えるときの表情になった。
「あったな。そういうことが」
「そのときにお前が言ったんだ。俺たちは騎士だ。お姫様を助けなくちゃならないって」
 睨むような目つきを周はしていた。しかし、瞳をぎこちなく動かした。
「思い出したか? 俺はそれを聞いたとき冗談かと思った。俺たちが騎士? ってな。だけど、俺たちはやっぱり騎士なんだ。お姫様を守る義務を持ってる騎士だ。これまではうまくできてなかった。でも、それじゃ駄目なんだ。美以子には助けが必要だ」
 強士は唇をひきつらせた。馬鹿げてる――と思っていた。だけど、他にどう言ったらいい? 美以子に助けが必要ってのはまさにその通りのことだ。俺たちが助けなくちゃならない。

「なに子供みたいなこと言ってるんだよ」
 周は首を弱く振った。
「助けるって、いったいどうやって? いや、俺は信じてるわけじゃない。だって、さっき会ったばかりじゃないか。美以子はすこしだけ変だった。それは確かだ。だけど、それはお前が苦しめてるからだ。俺にはそうとしか思えない。――仮に、もし仮にだよ、お前が言ったのがほんとうだったとして俺たちになにができる? それがお前にはわかるのか?」
「わからない。わからないけど、助けなくちゃならない」
 強士は深く息を吐いた。周は腕を組み、目をつむった。そのままで細かくうなずくようにした。


 ひとりになった美以子はじっと鏡を見つめていた。白い肌のすぐ内側には沈潜した赤が薄く見えた。そうしようと思ってもないのに口許はゆるんでいった。周くんと強士くんが来てくれた。私に会いに来てくれたんだ――そう思うと身体中を血が巡っていくのを感じた。
 美以子は口紅をとり、鏡に顔を近づけさせた。やっぱり私はあの二人が好き。この思いは子供の頃から変わらない。いや、変えられない。それに、あの二人も私のことが好きなんだ。今はちょっと間違った感じになってるけど、それもじきにおさまる。いつかあの二人は私のところに戻ってくる。これは決まっていたことなんだ。

 なにかが擦りあわさるような音が廊下の方から聞こえてきた。美以子は首をすこしだけ曲げて、その音を聞いていた。なんの音だろう? 重たいものを無理に引きずってるような―― 美以子はこめかみに指をあてた。目をつむり、眉をひそめた。ギチギチギチという音がした。
 え?
 さっと振り返り、美以子はドアを見つめた。自然と胸に手をあてていた。息は浅くなり、顔は青ざめた。――いるんだ。あの者がいる。ドアの向こうから私の様子を窺ってる。美以子は深く息を吸いこもうとした。しかし、うまくできなかった。なにかがつかえたようになっていて浅くしか吸えなかった。ギチギチギチという音はふたたび聞こえてきた。部屋の中は静かで、秒針が刻む音しかしていなかった。

 どうしよう? どうしたらいい?
 美以子は周と強士の顔を思い浮かべた。あの二人ならきっと助けてくれる。――でも、それじゃ駄目。私があの二人を守らなきゃならないんだ。間違った方へ連れて行こうとする者から遠ざけなければならない。そうしていれば、あの二人は私のもとに戻ってきてくれる。子供の頃そうだったように一緒にいてくれるようになる。

 

 ノックの音が高く響いた。胸に手をおいたまま美以子は姿勢を正した。ふたたびノックの音がした。ドアに嵌められた磨りガラスには黒い影が見えていた。
「はい」とだけ美以子は言った。声が震えているのは自分にもわかった。黒い影はすこし動いた。ドアノブがまわっていった。
「あの、そろそろ出番ですので」
 ドアの隙間から顔を出したのはホールスタッフだった。美以子はこたえずに、その背後を見つめていた。
「あの、斎藤さん? そろそろ、」
「え? あ、はい」
 深く息を吐き、美以子は肩の力を抜いた。ただ、目だけはずっと廊下の方を見つめていた。

 

 

 

↓押していただけると、非常に、嬉しいです。
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ

にほんブログ村 エッセイ・随筆

  

現代小説ランキング エッセイ・随筆ランキング 人気ブログランキングへ

 

〈BCCKS〉にて、小説を公開しております。

 

《恋に不器用な髙橋慎二(42歳)の物語です。

 どうぞ(いえ、どうか)お読みください》