西郷が閣議で主張したこととは?

 

明治六(一八七三)年六月から七月の間に開かれた閣議において、西郷は朝鮮への全権大使の派遣を主張し、自らがその任にあたりたいと要望しました。
 しかし、西郷は閣議の席上において、「朝鮮を武力で征伐しよう」や「朝鮮へ軍隊を派遣しよう」などといった過激な主張は一切していません。西郷は朝鮮への使節派遣の重要性を主張したに過ぎないのです。
 「征韓論」という言葉を聞くと、何だか「遮二無二、朝鮮へ戦争をしかける主張」といったような荒々しいイメージを思い浮かべるかもしれませんが、西郷がそういった主張をしたので、学界などから「征韓論者」だとレッテルを貼られているわけではありません。西郷が征韓論者だとされているのは、彼が主張した朝鮮への使節派遣論が、朝鮮に対する武力行使を意図(目的と)したものであった、という点からなのです。
 対朝鮮議案が評議された閣議が開かれて以降、西郷は自らが朝鮮への全権大使に就任することを熱望し、参議の板垣に対して、幾度も手紙を出し、自分の主張を閣議で支持してくれるよう依頼しています。その板垣に宛てた手紙の文面に朝鮮への武力行使に言及した文言が散見されることから、西郷は後世の史家たちから「征韓論者」だと言われていると言えましょう。
 しかしながら、後に西郷と大久保が明治六(一八七三)年十月十四日の閣議において対立したのは、朝鮮に使節を派遣することが妥当であるか否かの問題が主題でした。「征韓論」という言葉のイメージがもたらすような、朝鮮に軍隊を派遣するか否かを論じたものでは決してありません。
西郷は、日本と朝鮮との間で様々な外交問題が生じ、関係がこじれていることから、朝鮮へ軍隊を派遣しようとする意見があるが、朝鮮へ即時派兵するのではなく、先に公然と使節を派遣するのが筋道だと主張し、大久保はその西郷の主張に対して、使節の派遣は朝鮮との軋轢を生んで戦争に繋がり、現在の日本の国情を考えるとそれは得策ではない、と反対したということが事実であり、それ以上それ以下でもないのです。
 また、一般に言われているように、西郷は朝鮮との開戦を目的に自らが使者になりたいと言ったわけでも、戦争を誘発するために使節を派遣したいと主張したわけでもありません。朝鮮への即時の軍隊派遣は道義的にも良くないということを閣議の席において公然と主張したに過ぎないのです。
 その点から言えば、西郷も大久保も共に即時征韓論者ではないと言えるのですが、西郷は使節を派遣すること自体の重要性を強調しましたが、大久保は使節の派遣そのものが戦争を誘発することになると反論し、両者の主張は真っ向から対立しました。
 結局のところ、二人の論点は合っているようで、大きくズレているとも言えます。大久保の主張は、西郷の使節派遣が失敗し、朝鮮との間に大きな軋轢が生じることを前提にしているからです。

 


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