花紀京 追悼特番 ●新喜劇メンバーが語る+名場面集

喜劇俳優の花紀京(はなき・きょう、本名・石田京三=いしだ・きょうぞう)さんが2015年8月5日午後7時44分、肺炎のため、大阪市内の病院で亡くなった。78歳。とぼけた味わいのある芸風で吉本新喜劇の黄金時代を築き、多方面で活躍していたが、平成15年5月に自宅で入浴中に倒れた。葬儀・告別式は家族葬で執り行う。
近代漫才を興した横山エンタツの次男。小さいころから寄席が好きだったが、父に芸界入りを反対されて関西大学仏文科に進学。あきらめきれず家出し、大学も1年で中退した。
劇作家、花登筐に弟子入りしOSミュージックの寸劇で初舞台。そのあと花登劇団「笑いの王国」に参加した。昭和37年に吉本興業に入り、芸名は本名の“京”と、花登の“花”をもらい“ききょうの花”をひっくり返した形にした。
ホンワカ、ホンワカ~のテーマ曲にのった新喜劇では岡八朗(当時・八郎)さんとのコンビで爆笑の舞台を展開。絶妙の間(ま)で主役を食う、したたかな作業員がはまり役だった。漫才ブームの昭和55年に岡さんと大型漫才コンビを組み、話題になった。
吉本の“新喜劇若返り”方針で岡さんらと平成元年に退団したが、たしかな演技力を買われ舞台やNHK朝の連続テレビ小説、バラエティー番組、CMなど幅広く活躍。昭和48年に「上方お笑い大賞」金賞受賞、平成13年にはダウンタウンらとのユニット「Re・Japan」でNHK紅白歌合戦に初出場した。
シャイで控え目、“京ぼん”の愛称で呼ばれ、「主役の器やない」と脇役にまわることが多かった。偉大な父親について「エンタツを襲名するなんて考えてまへん」といい、「親の名は芸界入りの時に役に立ったけど、笑いの芸は七光だけでは誰も笑ってくれまへん」とよく話した。
昭和38年に松竹新喜劇の曾我廼家五郎八の娘で、女優の西岡慶子と結婚、しばらくして離婚した。

◆花紀京(はなき・きょう)1937年(昭12)1月2日、大阪府生まれ。横山エンタツの次男に生まれたが、父の相方花菱アチャコに憧れ、58年に劇作家の花登筐(はなと・こばこ)氏に弟子入り。59年に劇団「笑いの王国」旗揚げに参加。解散後の62年に吉本興業入り。63年に吉本新喜劇座長。「てなもんや三度笠」などテレビにも出演。89年退団後も舞台やテレビ、映画、に出演した。

小学生、中学生の頃(1960年代後半~1970年代前半)、毎週土曜日に学校から帰って来てから、毎日放送でしていた吉本新喜劇を見るのが日課になっていました。その当時、吉本新喜劇と言えば、花紀京と岡八郎でした。この二人は、強烈な印象が残っています。
花紀京は、横山エンタツの次男、岡八郎は、花菱アチャコの弟子です。この二人が漫才コンビを組んでいました。近代漫才を興したエンタツ、アチャコの再来のように思います。又、岡八郎の弟子にオール阪神・巨人がいます。
岡八郎は、吉本新喜劇(当時・吉本バラエティー)の一期生です。

花紀京は、吉本新喜劇を退団後、テレビ番組のドラマに出演しています。

花紀京 追悼特番 ●新喜劇メンバーが語る+名場面集



花紀京、岡八郎の漫才



1983年当時の吉本新喜劇の座員



花紀京と岡八郎



1クリックお願いします。


演歌 ブログランキングへ