※この記事には虐待についての表現が含まれる為、苦手な方は閲覧なさらないように注意してください。


助産師でありYouTuberであるHISAKOさんの毒親動画が炎上した件で思うことがあり、このブログを書くことに決めました。

様々な意見がある事は承知ですが、私の人生を振り返りながら、思うことを記します。その為かなり長文です。

長いので何編かに分けます。



まず最初に、私は虐待家庭で育ちました。

生まれて最初の記憶は夜中に1階から母の叫び声が聞こえ、心臓をバクバクさせながら兄たちと階段を下り1階の様子を見ると、妊娠中でお腹の大きい母の身体の上にテーブルの台が乗っている光景でした。

父はいまで言うモラハラ、虐待に値するような人で、母や兄に対する暴言暴力が当たり前でした。

しかし当時は(私は30代前半です)、まだ女性蔑視の世界で、夫婦喧嘩で暴力沙汰もそこまで珍しくなく、
子供への暴力も躾としてやっている家庭も少なくなかったと思います。

当時のワイドショーなんかは子供に手をあげる躾はどこからが虐待か、なんて調子で、
そもそも女性や子供への暴力は絶対にいけない、という風潮に変わったのは本当にここ最近の話だと思います。

当然、モラハラという言葉もありませんでした。

母も母で精一杯だったのでしょうが、何でもかんでも「お父さんが怒るから」という言葉で子供達を支配し、兄弟全員が常にビクビクと大人の顔色を伺っていて、全員チック症。

それでも子供が生きている世界は狭いもので、私の家庭が普通ではないんだと気付き始めたのは中学・高校と思春期に入ってからでした。

その頃になると、私が兄達から暴言暴力を振るうようになりました。力でどうやったって勝てません。

父は兄弟の中でも私に対しては手を上げませんでした。本当にたまにだけ。兄達がビシバシやられている横で私だけ口頭注意。兄達は「何でお前だけ」という思いを幼少期からずっと抱えていたと思います。


そしてその思いは私の成長と共に私への暴言と暴力という形で還元されました。

父→母だけでなく、兄同士の喧嘩も壮絶で、2人の喧嘩が始まると包丁が飛び交い警察沙汰になる事もあり、どちらかが死ぬと毎回怯えていました。

この2人がいつかころしあいをするのではないかという恐怖は未だに私を苦しめています。

成長した兄は母にも暴力を振るうようになっていました。

家にいると暴言、暴力が始まるので、高校になるとバイトをたくさんして時間を埋めました。

勉強も頑張っており、いい仕事に就いて、母と弟を幸せにするという夢も持っていましたが、何もかも投げ出したい、死にたいという気持ちを明確に抱き始めたのもこの頃だったと思います。

高校の途中でようやく両親は離婚し父が出ていきました。

それで家族が落ち着く訳でもなく、相変わらず兄弟喧嘩、兄の母と私への暴力にはビクビクし、

更に、父は罪滅ぼしと言って時々家へ来るようになりました。食器洗いやら、洗濯をやりに来るように。
暴言だけ吐きにきた事もありました。離婚の意味とは…?

来なくていい。もう関わりたくないと思ってましたが恐いので言えません。母も父が恐いので言えません。法的な手段に出るとか、母にはそういう知識もありませんでした。

大学へ入り、授業とバイトの合間で抱える家族問題の苦痛。あまりに辛かったのか、この頃の記憶が殆どありません。どうやって踏ん張って生きていたのか思い出せません。

ちょうどそれくらいの頃、身体の症状として色々と問題を抱え始めました。入院もして検査をしても病名がつかず、精神から来るものだろう、という事でした。

そんな時に性被害にあい、何かの糸がプツンと切れ、世界の何もかもが恐くなり、バイトも止め、学校どころか外に出るのが恐く、引きこもりのような状態になってしまいました。

朝から夜まで外で働き詰め、家に帰ると暴言・暴力を受けていた疲れた母の顔を見ると、自分が何を抱えているのか、助けてほしいは言えませんでした。引きこもった事で余計に兄からの暴言・暴力は増えましたが、性被害にあったことも家族の誰にも言えませんでした。

私が暴力をされていても、その場で止めなさい、と言うだけで、きちんと根本からその問題に向き合って仲裁に入ったり私のフォローをしてくれるような母ではなく、

虐めを止めさせてほしい、と何度か頼んだこともありましたが、その度に私も辛いし孤独だ、と今度は父の過去の悪口を聞かされ、あなたが分かってくれないなら私はどうなるの?となり、そう言われると何も言い返せず、それだけでなく私になぜ引きこもって頑張れないのか、と反論されてしまう。

母と話す気力もなく
分かり合える人は誰もいませんでした。

母とも分かり合う事を諦めました。

いま思うと、私の両親は二人とも立派な毒親です。

こんな家庭環境が恥ずかしく、友達にも言えず、人前では常に自分を偽っていた為、人間関係は希薄です。

体調は悪化するばかりで、こんなに頑張っていたのに、就職するまであともう少しだったのに、私が弟を幸せにしたいという気持ちは完全に打ち砕かれ、

それでも当時は全部自分の力不足だと本気で思っており、自分だけを責めていました。

自殺未遂もしてしまったりと、希死念慮も常にありましたが、それと同時に「私こそ幸せになる権利がある」と思い込む事で何とか生きていたように思います。


何とか大学だけはギリギリで卒業しましたが、それから後の人生も大変でした。まず家を出ようと自立したものの、(お金貯めておいて良かった!)

体調に左右されてばかりで、仕事が長く続かず、周りに迷惑をかけては自己嫌悪に陥るという負のループ。

今思えば洗脳されていたのですが精神科=薬漬けにされる悪い場所だから行ってはいけないと散々母から言い聞かされており私が行く所ではないのだと思い込んでいました。

母から離れ、ネットが普及したあと、母の言う事が間違っていると知り、きちんと自分と向き合おうと自ら精神科へ通いだしたのは20代後半での事でした。


離れてからは家族と連絡も取らずにいましたが、その間に父の人生、母の人生、それぞれに思いを巡らせ、許す・許さないとはまた違いますが、少しは大人の視点も持てるようになっていました。

あれだけ酷いことをされ毎日死んでほしいと本気で思っていた父や兄に対しても、憎むという感情は通り越して、彼らのそれぞれの人生にも同情し、過去が変えられない事実も理解し始めました。

誰が悪いと責めたって、トラウマが消えなくたって、こんな身体であっても、私の人生は自分の力で切り開いていくことしかできない事を十分に理解し、

こんな精神疾患やら身体の問題を抱えてしまった私は、これからをどう生きるのか、という現実と向き合います。

ここから先の人生は全て自分次第、という現実を理解すると、その重圧もまた私に大きくのしかかりました。


過去と自分は切り離せているつもりでも、体調は良くなったり悪くなったりを繰り返し、何かが変わる訳ではなく、いつ死ぬか分からないと思いながらただ毎日を生きていました。働いてお金を貯めては、体調崩して貯金も崩さなければいけない。悔しかった。

批判も覚悟の上ですが、いよいよ生活できなくなってきた時に、精神科の先生に生活保護を勧められました。そういう制度があるのは知ってはいましたが自分が受けていいものだと知りませんでした。1年半ほど生活保護を受けながら生活しました。
 
しかしこの事が親戚中に知れ渡っており、影で非難をされていた事を知り、何をやったって私は生きていてはいけない社会のお荷物なのだと思い込み、また自殺未遂。結局死ねずに生き延びてしまいましたが、この事がこの頃は一人で暮らしていた母にバレてしまい、私の一人暮らしは危険と判断され、入院のあとまた母と一緒に住む事になってしまいました。


つづく