まことに小さい声ですが

　　　俳句思へば

　５０年以上前の話です。

ウソみたいな話ですけれど、ホントです。そもそも、私が今に至るまで俳句

テ、何よ？と考えつづける理由。そのキッカケになった話。

　20才すぎに結核になり療養所で、たまたま同好会に入ったのが俳句との出合い。

若気の至り。

　退院後、自宅療養と言う名のヒマな日々。

　ふらふらしていた青春時代。

　句会なるものに誘われ、あっちへふらり、こっちへぶらり。ホメられたり恥を

かいたり。

　熱中したり、もういいや、と思ったり。

　結婚し、子が生まれ、退職し、小さな本屋を始め。或る日。以前の仲間が連絡

してくれて、「もう一度、句会に出ないか」と、無理やり連れて行かれた。

　そこで出会ったのが赤尾兜子。私は34才になっていた。

｢渦｣という名の俳句結社。そこは、前衛俳句と呼ばれるところだった。

　そんなコトも何も知らないまんま、連れて行かれた。

　ワケのワカラン俳句？ばっかりやった。

　後で考えると、あらゆるジャンルで前衛と称する運動が盛んだった時代だ。

　私は別の友人に誘われて具体美術を見て歩いていた。

　音楽の世界で一柳慧、ジョン・ケージといった人の奇妙な作品がマスコミで

紹介されていた時代だ。

　殆んどミーハーの気分での、俳句再入門だった。

もう記憶はぼんやりしてしまっているけれど、そんなイイ加減な句会参加を

半年もつづけていただろうか、或る日、句会のあと私を誘った先輩が、「この

あと兜子と二人で話があるのでつき合え」と半ば強引に夜の街へ。

　一軒目、スタンドバーで。兜子と先輩は何やら真剣に編集会議とやら。下戸

の私は運転手。兜子先生の自宅は神戸。私は尼崎。同じ方向。先輩の作戦だった。

　飲み足りない二人を私は、下町尼崎の居酒屋へ。

　そこで私の人生が変った。

　　　　　　痩せてしまえば鏡が動く冬の壁　　　　　赤尾兜子

　居酒屋で二人は大いに飲んだ。

　いや、飲んでいたのは兜子ひとり、だったか。

　先輩N氏は困り果てていた。

　赤尾兜子という人は、飲むほどに声は大きくなり、N氏を叱咤し、説教し、

ひたすらビールのグラスを空ける。N氏が俺を誘ったホントの理由は、これか、

とはじめて気がついた。

　あまりの大声に、周囲の客がこちらを向くので私はビールを注ぐしかない。

飲むときだけ静かになるので。

「君たちを怒っとるんやない！俳句のために怒っとるんじゃ」

　この一言が私の人生を変えてしまった。

　　　　　　俳句思へば泪わき出づ朝の李花　　　　　　兜子

　たかが俳句ではないか。

　たった十七音ではないか。

　そんなモノにこんなに真剣になり、夜遅く、酒に酔って大声を上げる。

なんで？

と、私は思った。

　その夜、神戸まで先生を送り、先輩の家に寄って、先生の句集を借りて帰った。

　その句集を一句、一句と筆写した。

　コピー機のない時代の話だ。

　書き写すしかなかった。

　赤尾兜子という人が、当時47才だったその人が、鬼のようになって語る

〈俳句〉テ、何なのよ。

　その人の書いた俳句を読むほか、手段がない。

　そう思った。

　200もあっただろうか、借りた句集の中の作品は。

　一句、読み下しても意味がわからない。

　ワケノワカラン事ばっかり。

　どうせわからないなら、読んで書く、のではなく、一字一字を書く。

一語一語を書き写す。そういう「作業」をつづけた。

　意味を追わないのだ。

　この句は何を言いたいのか、考えないことにしたのだ。

　そうして立ち止まったのが前記の〈冬の壁〉。

　作られたのは多分、昭和21年か22年。

　赤尾兜子の第一句集『蛇』にある。

　誰が痩せたの？

　鏡が動く、て、どういう事？

　冬の壁？ナニ？それ。

　何も分からない。

　けれど、けれど、気になる。

　このとき、貴方はどういう気分だったの？

　機嫌は良かったのか、悪かったのか。

　元気良かったのか？そうではないだろ？

　それが私の感想。

　それから50年。いまだに理解しきれない。

　理解しなくていい、と、ようやく気がつき始めている。

　ずーっと、俳句が分からない。

　だから辞められない。

　赤尾兜子が〈俳句思へば泪わき出づ〉と書いたのは昭和50年。

　前衛の兜子が伝統帰りするのか、と、うしろ指さされている頃だ。

　たしかに、この一句、旧仮名づかいだ。

　その頃、近くに居た私は、先生が旧仮名に復帰する、という宣言を聞いた

覚えがない。

　迂闊と言えば迂闊。

　だけど、先生は言葉に出して宣言したのではなく、自然体で旧仮名で書き

始めたのだろう、か。

　赤尾兜子という人はそういう人だったのだ。

　俳句は謎のままでいいではないか。

332 俳句思へば

332　俳句思へば