磐田を衝動的に突然脱出してきたようだが、実は毎週のように焼津に帰ってきて着々と会社を辞める準備はしていた。 毎週焼津に戻ると近所の溜まり場になっていた ”喫茶 珈琲人” に行き、その店の店主である K 姉さんやそのツレ、自分のツレなんかに相談に乗ってもらっていた。 


 会社を辞める前には、次の職場も決まっており、退社後、即、次の会社に入社した。 折角、仕事を辞めたんだから失業保険でも貰って少しブラブラしていればいいようなものなんですが、、、、実は性格的に無理というか、そういう発想は無いんです。 次の会社に勤めた後も結婚やら何やらで2回転職しましたが、その2回とも失業保険を貰うとか、ブラブラする期間を作ることなく、即、次の会社に行っていた。 どちらかというと良いことなのだろうが、もう少しいい加減に生きればいいのに変なとこに真面目で、、、、性格なのか、DNAなのか?


 車のハンドルを替え、、、、スポイーラーを付けて、、、前の会社では通勤に大きな事故を起こした人がいたために道交法には厳しく管理、、、、改造車なんて、もってのほかだった。 まぁ、それが原因で辞めたわけではないが、次の会社に既に勤めていた中学からの同級生2人が、車に関して会社側は寛大だよってことを聞いていたので、その頃の流行そのものの改造車に戻した。 


かし久 石松鍋  次に勤める会社 ”かし久” は、自宅から車で5分もかからない。 焼津市和田地区の南側にある焼津水産加工団地に隣接していた。 食品の製造、販売の会社でその頃、”石松鍋焼きうどん” というアルミ容器に麺や具が入っていてスープを袋から出し、水を足してそのまま火にかけると簡単に出来上がるという、ヒット商品も出ていて結構、有名だった。 この会社は食品を製造する ”かし久食品” と営業販売する "かし久物産" とに分けられていて、自分はルートセールスをする ”かし久物産” に就職した。 



 仕事の内容は保冷車用の荷台を積んだ2トン車で西から浅羽町から浜岡、御前崎、相良、榛原、吉田、大井川、島田、金谷、藤枝、焼津、岡部、静岡、清水、興津、蒲原、由比、富士川、富士、沼津、三島ままでを10台くらいで周っていた。 別に大型トラックで浜松にも1便出ていた。 


 トラックは前面には”かし久”の久をアルファベットで Q と赤く文字が書かれていた。 保冷車の箱にも両側面と後側に大きなキャッチコピーとテレビで宣伝されていた絵が大きく描かれていた。 ”森の石松” が着物姿で唐笠を片手に う、うめーでござんす!」 っと。 この会社には3年位して結婚することを決めたころに訳あって辞めるがその後、そのトラックに書かれていたキャッチコピーは う、うめーえござんす から うめーでござんす に替わっていた。 多分、その ” ドモった ” 表現にクレームがついたのであろう。 決して冷やかしたり、茶化したような意味合いでは使っていないし、静岡では森の石松の喋りは文化とも言えると思うが、異常な行き過ぎた擁護的発想はこの頃から始まってきたようだった。 勝手に弱者と決めつけ、、、擁護し、、、過保護で宗教にも思える自然保護の発想や行動、、、、最近ではひとつの事件で異常なまでの加害者の擁護、、、、被害者は泣くに泣けなくなってしまっている。 山下清の ”裸の大将” は今でも放映できているがやはり中傷ってものはあるのだろうか? 何ともギスギスして大らかさが無く、悲しい発想しか出来ない腐った野郎が増えて、何とも悲しい世の中になってしまったようである。


 この”かし久食品”はその後、社長が亡くなったり、色々と紆余曲折があったようで社名も”かし久フーズ”に替え、頑張っていたようですが、昨年だったか遂に、、、倒産してしまった。 夏と冬のボーナス以外にも特別賞与をくれていた昔からは想像も出来ない悲しい結末だ。