今まで生きてきた生活のリズムとは全く違った毎日。 それなりに慣れてきてはいたが決して心地いいものではなかった。 仕事は醤油キャップから、農協のプレーンヨーグルトカップの印刷に替わり、醤油キャップのようなイライラする内容ではなかった。 白いカップがクルクル回りながら印刷されていき、仕事といえばカップの補充とインクを足していくことと定期的な抜き取り検査、、、。 そんなに大変な仕事ではなかったが、やはり、夜中の仕事は精神的に余り良いものではなかったように思う。


 遊ぶ友達も決まってきて、、、遊ぶ内容も、、、。 夜に終わったら、、○○。 午後に終わったら、、○○。 朝に終わったら、、○○。 週末は焼津に戻り、、、って感じで完全にパターン化されていた。 当たり前だが相変わらず女の子たちは だにぃー、だにぃー って発していた、、、。 仕事をしだして3ヶ月ぐらい経った頃だったか、ためらうことなく 「一身上の都合により・・・」っていう月並みな辞表を生まれて初めて書き、部長さんに提出した。 受理も何もわからない18歳の少年は布団から家財道具の全てを日産シルビアの後部座席とハッチバックの部分に詰め込み、次の週末に夜逃げのように焼津に戻ってきた。


 安易に決めた就職先、、、、急な生活の変化に順応できず、、、我慢の限界だった。 


 家に戻っても両親からは特別グズグズ云われることはなく、何ヶ月か前と同じように接してくれた。 今思えば、いろんな事をして、たくさん迷惑を掛けてきたにも係わらず、最低限必要な親として、大人としての発言以外には余り、とやかく言わなかった。 何をやるにしても子供を信頼してくれていたのか、子供自信に責任を持たせ、子供のやることに介入などは皆無に等しかった。  

 

 そういえば、スポーツ少年団に行きだした小学校の頃から送り迎えだけをただ笑顔でしてくれていた。 中学に入ってからは自分から 見に来たら辞めるからな!って粋がって言っていて、、、、結局、両親が始めてプレーを見たのは中学最後の大会だった。 バレーボールのルールが?な父は 何でうちの息子は人にばっかりボールを揚げて自分では打たないのか? ってセッターの役割も知らずに言っていた。 その直後にもその頃、野外で行われていた地域のバレーボール大会に中学生の参加が認められ 頑張ってぇー、勝ちたい って言われて無心に頑張ると、強いフローターサーブと自分でとって自分で打って決めてしまい余りにゲームならなくて、、、急遽、中学生のプレーを限定され、、、それじゃあ、、、皆さんで頑張ってって退いたときも父は急なルール変更にぼやいていたことが今も思い出される。


 バレーの指導を始めたときも、孫が全国大会に行く出場するようなことがあっても、審判でテレビに映るようになっても母は特別な介入や発言はなく、母は母のペースを守り、ただ只管、遠くで見守ってくれているようだった。 最近では介入しすぎの親が目立つようになってしまっているご時勢、、、この両親との距離感、信頼関係には改めて感謝しなくてはならないと思う。


 こうして、僅か何ヶ月かの家元を離れた生活にピリオドを打ち、再び焼津での生活を迎えることになる。