研修も終わって、、、いよいよ、寮生活っていうか、、、社会人として仕事をしだす。 この会社は車で通う地元の社員が多く、女性もたくさんいた。 この頃、今と違って面白い風習っていうか、考えみたいなことがあった。 それは女性の適齢期が23歳~25歳ぐらいっというような空気があって、その年を過ぎても結婚しないで会社にいると完全にお局様(おつぼねさま)扱いされていた。 だから、みんなその時期に寿退社することに憧れ、結局、結婚できなくても25、6歳になると寿退社であるかのように黙って辞めていく人が多かった。 そして無事?に結婚して一旦辞めた人はその後、子供を産み子供から手が放せられるようになると自慢げに再びパート社員として帰ってきていた。 可笑しかったのはお局様にならず、夢を果たし寿退社はするものの、その後すぐにパート社員になるという今考えると大変にもったいない可笑しな行動をする人もいた。 結婚してもそのまま正社員でいればいいのに、、、? 異常なまでに寿退社に憧れ、自慢げな顔をして再び会社に戻ってくることが全て、、、みたいだった。 

 

 こんな空気はココだけに留まらず焼津を含め全国的であったと思う。 いつ頃から何故、今のような27歳~35歳ぐらいの適齢期に変わってしまったのだろうか? 決して昔の風習の方が良いとは言い切れないが、あの頃にはあった女性の繊細な恥ずかしさみたいなものが懐かしく思えるのは自分だけなのか、、、?今では30後半でも40を過ぎても平気で子供を生めるようになったが、あの頃は30を過ぎてからの出産は高齢出産と世間では云われ、母子ともに危険が伴うと聞かされていた。 医学も進み、考え方やモラルまで変化し続けていますが、20歳ぐらいの若い年齢で子供を生んだ方が母子ともに健康である確立が高いということは今も変わらず常識とされていますから、個人的には23歳の適齢期ってのは大賛成です、、、、まぁ、経済力あってのことですが。  


 寮から通う人は1割にも満たないようだった。 寮には期間社員っていうか、出稼ぎみたいに見られている東北のオジサンもいて、、、地元の人ではない俺たちも同じように見られていたのかも知れない。  

 工場は幾つかのラインに分けられていた、、、プラスチックの成型、組み立て機械、印刷っと。 最初に割り当てられたのがお醤油の赤いキャップの組み立てというか、自動はめ込み機のオペレーターだった。 その機械は下側のキャップと上側のキャップのネジを自動で合わせ、回し、はめていくといったもので俺はそれぞれのキャップをホッパーに入れることと、出来上がって一定量溜まったキャップを除け、次の入れ物を置くといった簡単なことだった。 しかし、何時間もやっていると問題が起き始めた。

 

 この上下のキャップは当然社内で作られていて時より検査の見落としで不良が混じっていると上手く勘合できずに機械にキャップがグチャグチャになって挟まれてしまう。 機械は異常停止するとブザーの音と共に機械上部についたパトカーと同じ赤色灯が光りグルグル回った。 製品がいいからと安心していても機械的な問題なのか、それぞれのキャップが上手く流れないで グギ、グ、グ、グ、グ っという嫌な音と共に挟み混んでしまうことが時より起きた。 


 この機械を含めオペレートが24時間を3交替で行われているものが多かったが、何故か寮生が主に3交替の仕事についていたようにひがんでいたが、今思うとそんなことは全く無く、一部の事務系、検査系の男女、及び管理職の人が日勤だったと思う。 しかし、3交替の夜勤の部は間違いなく寮生が多かった。 確か、給料明細にはいつも時間外:186時間ぐらいが書かれていた。


 慣れない仕事、慣れない3交替、夜勤の眠さ、夜勤明けの眠れなさ、、、、遊びぶことの少なさ、ツレの少なさ、、、すぐに仕事が嫌になってきた。 特に最悪だったのが夜中のオペレートの時に機械に不具合が発生して何度も何度も ”グチャグチャ” になり、苛々してきて、、、眠いし、、、最後には機械を蹴りこみたくなり、、、自衛隊体験入団で山道をジープで追われながらのランニングのときのように今すぐに逃げ出したくなる感情を必死で押さえていたことを今も鮮明に覚えている。