触感シリーズ 小学校5・6年生(高学年)
第1話 イグサのざらり、記憶のワッフル
1 フローリング育ちの足
レオの住む世界には、これまで「靴を脱ぐ」という概念があまり存在しなかった。
アメリカのシカゴ。冬は凍えるように寒く、家の中は分厚いカーペットか、硬いフローリングで覆われている。ベッドに入る時以外、足の裏が直接床に触れることはない。靴は、足を保護する「第二の皮膚」だった。
だから、日本に来てからのレオは、毎日が失敗の連続だった。
「オー・ノー! またやっちゃった!」
レオは、片足を上げたまま、彫刻のように固まってしまった。
目の前には、おばあちゃん家の客間である和室が広がっている。そして、レオの右足は、あろうことか泥のついたスニーカーを履いたまま、その木の敷居をまたごうとしていたのだ。
「レオくん、ここはジャパンだよ。土足厳禁!」
台所から、おばあちゃんの呆れたような、でも楽しそうな声が飛んでくる。
「ソーリー、おばあちゃん。どうしても体が覚えなくて」
レオは苦笑いしながら足を引っ込め、玄関に戻った。
父の転勤で、この夏から日本で暮らすことになったレオ。新居が決まるまでの間、田舎にある祖母の家に居候(いそうろう)しているのだが、文化のギャップは想像以上に大きかった。
特に、この湿気だ。
じっとりとしていて、空気が重い。肌にまとわりつくような暑さ。
レオは額の汗を拭いながら、窮屈なスニーカーを脱ぎ捨てた。
「さて、リベンジだ」
靴下も脱いで、裸足になる。おばあちゃんが「日本の夏は裸足が一番」と言うからだ。白い足の指が、久しぶりに外の空気に触れてモゾモゾと動いた。
2 未知との遭遇
ペタペタと廊下を歩く。廊下の板張りは、ツルツルしていて少し冷たい。これは知っている感触だ。
問題は、この先にある緑色の床――畳(たたみ)だ。
レオは、おそるおそる右足を畳の上に乗せた。
(……なんだこれ?)
カーペットのようなフワフワ感はない。かといって、フローリングのような硬質な冷たさとも違う。
「ザラザラ? ……いや、もっと複雑だ」
足の裏に、植物の繊維一本一本が当たるのが分かる。規則正しく編み込まれたその凸凹(デコボコ)が、足の裏の皮ふを心地よく刺激する。
体重をかけると、ほんの少しだけ沈み込み、同時に押し返してくるような弾力がある。
歩き出してみる。
カサッ、カサッ。
乾いた草が擦れるような、微かな音がした。
「それは『イグサ』よ。い草っていう植物を編んで作ってあるの」
おばあちゃんが、キンキンに冷えた麦茶とスイカをお盆に乗せて入ってきた。
「日本の夏は湿気が多いだろ? このイグサのザラザラが、足の汗を吸い取って、空気を調整してくれるのさ。天然のエアコンみたいなもんだね」
「へえ、すごいテクノロジーだね。……あ、テクノロジーじゃないか。ネイチャー(自然)の力か」
レオは感心して、部屋の中央にある座卓の前に座ろうとした。
でも、椅子がない。
アメリカの家には、どこにでもソファがあった。体を預ける場所があった。
ここでは、床そのものが居場所なのだ。
3 全身で味わう
「どうやってリラックスすればいいの?」
レオが困惑して聞くと、おばあちゃんは座布団をポンと叩いた。
「ゴロンとすればいいのよ。畳は床であり、ソファであり、ベッドなんだから」
扇風機が首を振り、生温かい風を送ってくる。
レオは思い切って、畳の上に大の字になってみた。
ドサッ。
背中全体、腕の裏側、ふくらはぎ。体の後ろ側全部で、畳を受け止める。
「うわあ……」
Tシャツ越しに、編み目が食い込んでくる。痛くはない。むしろ、背中の凝りをほぐしてくれるような、優しい刺激だ。
鼻を近づけると、新しいスニーカーの箱を開けた時のような、あるいは乾燥した牧草のような、青くて甘い香りがした。
「これが『いぐさ』の匂いか。悪くないね」
窓から入ってくる風が、汗ばんだ肌を撫でていく。
さっきまで不快だった湿気が、畳に吸い取られていくのが分かる。ひんやりとした感触が、体の熱を逃がしてくれるようだ。
遠くでセミが鳴いている。風鈴がチリンと鳴る。
レオは目を閉じた。
(日本って、思ったよりいいかも)
硬すぎず、柔らかすぎず。
大地の上に直接寝ているような安心感に包まれて、レオはうとうとと深い眠りに落ちていった。
4 和風ワッフルの刻印
「……オ、起きたかい?」
おばあちゃんの声で目が覚めた。いつの間にか一時間も昼寝をしていたらしい。
体を起こそうとして、腕を見る。
右腕の内側が、妙に赤くなってボコボコしていることに気づいた。
「わっ! 何これ! 病気!?」
慌てるレオを見て、おばあちゃんが笑い出した。
「鏡を見てごらん」
レオは鏡を覗き込んだ。右の頬っぺたにも、網目模様がくっきりとついている。
肌に、畳の編み目の跡が刻印されていたのだ。
「見てよおばあちゃん! 僕の腕と顔、ワッフルになっちゃった!」
レオが腕を突き出すと、おばあちゃんは「プッ」と吹き出し、お腹を抱えて笑った。
「あらまあ、美味しそうなワッフルだこと。シロップでもかけようか?」
「ノー! 勘弁してよ」
レオは自分の腕の跡をさすった。
指先でなぞると、デコボコとした感触が残っている。数分もすれば消えてしまう、一時的な「刺青(いれずみ)」だ。
でも、不思議と嫌ではなかった。
アメリカにいた頃は、何もかもがスムーズで、ツルツルしていた気がする。壁も、床も、道路も。
でも、この家には「手ざわり」がある。
裸足で感じる畳のザラザラ。寝転んだ時につく跡。
そのちょっとした不便さや刺激が、自分が今「日本にいるんだ」という実感を、体全体に教えてくれている気がした。
5 エピローグ
夕方になり、ヒグラシが鳴き始めた。
ワッフルの跡はもう消えてしまったけれど、レオの体には、確かな感覚が残っていた。
「さて、ワッフル少年。そろそろ晩ごはんの準備を手伝ってくれるかい?」
「オーケー。でもその前に、もう一度だけ」
レオは立ち上がり、畳の上をわざと足の指で掴むようにして歩いてみた。
カサッ、カサッ。
その音と感触を、足の裏にしっかりと記憶させるように。
ちょっとみんなに聞いてみたい。
家の中で、裸足で床の感触を確かめたことはあるかな?
フローリングのペタペタ、カーペットのチクチク、そして畳のザラザラ。
僕たちは毎日、足の裏で世界とキスをしているようなものだ。
もし家に畳があったら、ぜひ寝転がってみてほしい。
そして起きた時、自分の体に「ワッフル」ができていたら、それは君が日本の夏と仲良くなった証拠だ。
「今日の夕飯はなんだい?」
「ざる蕎麦だよ。ツルツルして美味しいよ」
「最高だね」
レオは、ザラザラの床の上で、ツルツルの蕎麦を食べる自分を想像した。
この国のいろんな手ざわりを、僕はこれからもっと知っていくんだ。
(第1話 了)
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