今年もスケートは出てきません。。。ごめんなさい。。

 

あの日を忘れないために。。。

今年は「感謝」を書いておこう。

 

あの時、私が住む茨城県北部は震度6強の揺れに見舞われた。

建物ごと力ずくで揺さぶられ、這いつくばったまま家族3人でなすすべなく床の上で振り回されていた。

家じゅうのものが散乱し、ガラスや陶器はことごとく割れた。

 

揺れが収まったすきを見て、なんとか駐車場の自家用車に避難した。

余震に揺られるまま、ただ茫然と、余震とともに徐々に崩れ落ちる周辺の民家を眺めながら、そこにいた。

 

ふと気が付くと少しずつ日が暮れだして、このままだと真っ暗闇の中で夜をしのがねばならぬことにようやく気付いた。

その時、娘は4歳。

このままでは幼い我が子を守れないかもしれない…

 

前に避難訓練で行った小学校の体育館に行ってみよう。

 

家族三人で徒歩10分ほどの小学校の体育館に向かった。

 

夕方4時過ぎの空はまだ明るかったが、停電で灯の消えた小学校の建物はすっかり夕闇に沈んでいた。

電気がないというのはこんなにも暗いのか…

体育館の入り口は真っ暗な洞穴のようで、中がどうなってるのかまるでわからなかった。

 

「すみません。。。ここに大人2人、子供1人避難できますか?」

 

暗闇に向かって声をかけた。

 

すると私の目の高さに、白い手が暗闇からスッと現れ…体育館の床は高いので地面に立つ私にはその人の手から下しか見えなかったのだ…

 

「もう足の踏み場もないくらい人で一杯なんですよ。。。できれば親戚とかを頼ってそちらに行ってもらえませんか?」

 

と言われた。

女性の声だった。

 

…あなた方は助けるに能わず…

 

そう言われたように感じ、幼い子がいるのに拒絶される理不尽さと恐怖と怒りみたいな、自分勝手で非合理な感情が一気に噴き出して、

 

「小っちゃい子を抱えて、県内に身寄りもなくって、電気も水もなくて、どうしろって言うの?」

 

その女性の白い手に強い口調で言い返してしまった。

 

…すると、その女性の後ろからもう一つの白い手が現れ、

「わかりましたよ、お母さん。場所があるかどうかわかりませんが、一度この中に入って、居られそうか見てみますか?」

ちょっと年配の女性の声だった。

 

その言葉ですっと冷静になれた気がする。

 

受付表に名前を書いて真っ暗な体育館に上がり、だんなの持つ懐中電灯を頼りに床の空きスペースを探す。

懐中電灯の小さな灯に照らされるのは人の足、足、足…床が見えない。

それでもほんの数十センチの隙間をみつけると、周囲の人たちが少し脇によってくれて、なんとか3人が腰を下ろせるスペースを確保した。

 

後で冷静になってみると、この避難所を被災後すぐに開設したのは地元の自治会だ。いわばボランティア、有志たち。

私達の対応をしてくれた女性たちももちろんボランティアだったのだ。

ご自身も被災しただろうに。。。頭が下がる。

 

それなのに、あんな言い方で言い返してしまって、ほんとに申し訳なかった…

 

灯の無い体育館は漆黒の闇だ。隣の娘の顔も旦那の顔も全く見えない。

この中にどれくらいの人数がいるのか見当もつかない。

 

地鳴りのような大きい余震がひっきりなしに続いていた。

たぶん夜九時くらいだったと思うが、小さな懐中電灯の灯が体育館の中を少しずつ進んでいくのが見えた。

ゆっくりと少しずつ進んではまたどこかへと戻っていく。

そしてまたやってきて少しずつ進む。

どうやら中学生くらいの女の子たちが味噌汁とお握りを一人一人に配っているようだった。

 

「ほんのちょっとずつですけど」

 

私達の前まで来た時、一人の子が言った。

おそらくここの避難所の運営スタッフの娘さんたちなのだろう。

手伝いますと申し出たら、少ない人数でやるほうが危なくないので、と丁寧に断られた(笑)

全員に配り終わったのは11時を過ぎていたと思う。

ほんとうに頭が下がる。

お腹がペコペコだったのでありがたくいただいた。

 

白菜の味噌汁ひと口と塩おにぎり一個。

 

後で聞けば、おにぎりのお米や野菜や味噌は、近所の農家の方々の寄付なんだそうだ。

そこの井戸水と薪で調理したようだ。

体育館にびっしりの人だから数百人は居た人たちに全員だから、ほんとうにありがとうございます、しかない。

 

その深夜、工事現場用の照明が一つ点いた。

これもどなたかが善意で持ち込んでくれたものらしい。

灯がついた瞬間、体育館中、拍手喝采だった。

 

灯ひとつだが、どれほど気持ちが安心で満ちた事か。。。

 

私が気付かないところで、もっと、こういったご厚意があったにちがいない。

そういうご厚意もまた避難所を支える大事な要素だったのかもしれない。

 

確かにウチは転勤族でこの地域に身寄りがない。

しかし、顔も知らない多くの地域の人たちの善意に、どれほど支えられて生活しているのか…

身に染みて感じられた一夜だった。

 

いざという時に身近にいて、まず最初に助けてくれるのは行政ではなくご近所の人なのかもしれない。

行政はその後になるのかもしれない…罹災証明とか、補償とか。

 

特にうちは自閉症とかアレルギーとか、支援が絶対的に必要なので、しかも学校は住んでる地域と少し離れた学校だし、そういう娘の事を知ってくれているご近所はほんとに大事だな、と思う。

障害のある家族がいるからこそ、地域にもっと開いて、覚えててもらう必要があるのかなあ、と。

 

障害のある、特に自閉症の子を持つと、周囲の人に迷惑をかけたくないという思いで避難所に行くのをためらう人も少なくない。

災害弱者のために福祉避難所というものも制度としてはあるが、茨城県内でそれが設置されたのはたった一例しかない。。。と記憶している。

行政の取り組みはまだまだこれから。

まずは個人的に地域社会で助け合って生活していくことが大事だなあ、と毎年この日に改めて思う。

 

 

 

 

そして。。。

二年前のこの日、私は東北を訪れる機会をえて、福島から宮城、岩手を北上しました。

 

今、この仙台空港のあたりはどうなっているのでしょう?

まだ、この時のように原野のままなのでしょうか?

 

 

その時に聞かせて頂いた言葉。

大切なご家族、大切な人を失った人々にとって、時の流れはけして心の傷をいやすものではない…

その現実が胸につきささりました。

 

…前を向いて進もう…

 

その言葉が残酷な意味をもつ、ということ。

 

 

 

…もしかしたらひょっこり戻ってくるんじゃないか…

 

そんなささやかな、すがるような希望も、時の流れが少しずつ削り取って、その空いた隙間に、

 

…もう戻ってはこない…

 

という絶望が入り込んでいく。

時が進むごとに絶望がその色を濃くしていく。

 

そういう現実が存在するのだということ、胸に突き刺さって痛みます。

 

その方々のちょっと後ろにいて、一緒に涙を流すしか私達にはできないかもしれませんが、どうか今年も一緒に涙を流させてください。

そういう祈りの気持ちでいっぱいです。

 

黙祷