小島君 | 吃音センセイ

吃音センセイ

~桜舞う校庭で~

京子が怖れていた本読みの時間は、あっさりとやってきた。


小島君が転入してから数日経ったある日の四時間目、国語の授業で、先生は京子を指名した。


京子は心臓が破裂しそうに感じながら、おずおずと立ち上がった。


どうしよう、どうしよう。

頭が真っ白になって、駆け足の鼓動が耳の奥までジンジンと響いた。


「…………」

第一声が、まるで出てこない。


頭は「読め、読め、」と京子に命令をだしているが、目は教科書の字面をなぞっているだけで、いっこうに言葉にならなかった。

いつもは、たどたどしく1ページを読み終えると、ぐったりして席につく、これがパターンだった。


しかし今日は、どもった姿を小島君に見られたくない、という思いが強すぎるのか、怖くてひとことも出ないのだ。


「井坂ぁ、なにやっとるんよ。はよう読まんかい」


服部先生が、京子を促す。


きっと、小島君が軽蔑した顔をして私を見ている。


でも、だめだ。どうしても読めない。

「………」


京子は立ったまま教科書を机におしつけて、下をみつめたまま動けなくなってしまった。


いますぐこの場から私を切り取って、別の世界に連れていってほしい。

蔑んだ好奇の目で、小島くんが自分を見ているような気がした。



「井坂は、どもりじゃなくて声が出なくなったそうでーす」

クラス一のやんちゃ坊主、しんやが面白おかしく言った。


「こら、しんや、黙っとれ」

服部先は、一喝すると


「うーん、もうええ、代わりにしんや、おまえが読め」


「ええっ、そんなぁ」

どっと皆が笑った。


注意がしんやに逸れたのがせめてもの救いだった。

京子は、ヨーヨーのゴムが切れたように、すとんと席に座った。


自分のどもりが憎かった。

それを隠そうとして、何も声にだせなかった自分がもっと嫌だった。


そのあとの授業や給食のことはほとんど覚えていない。誰とも口をきかないで、昼休みと午後の授業が終わった。


京子は、もう小島のほうを見ることができなかった。

きっと自分は気にしすぎているんだろう、と思った。

京子は必要以上に落ち込み過ぎていて、小島は国語の時間に笑い者になった京子のことなんか、もう忘れているだろう…ということも、どこかでわかっていた。

それでも、ダメだった。


いちど自分を責め続けると、なかなか立ち直れない。これはドモリのことで躓くたびに小さい頃からずっと感じている感じだった。

自分は他の誰よりも劣っていて、みっともなくて、みじめで、ポツンと疎外されている。


触って見ると自分の体は確かにここにあるし、「あ」って小さく声を出せる。

だけど、皆のいるフツウの世界からは切り離されて、別の世界に住む生き物だ。


周りで遊んでいる級友達の姿や声が、悪い夢の中のように、曇ったセロファン用紙の色でしか見えない。音を消したテレビのようだ。

私なんて、いないのと同じ……。


自分を消しゴムで思いっきりこすって、消してしまいたい。


こずえやみのりに落ち込んだ顔を見られるのが嫌で、まして小島君にどもりを知られたことが原因だなんて悟られるのも絶対に嫌だ。


6時間目が終わると、誰とも目線を合わせずにランドセルに教科書を詰め込むと教室を出た。自分は、この教室の幽霊だ、と思った。


そのまま図書室に向かい、まっすぐにいちばん角の端の6人掛けの広い机の席に座った。


この時間に図書室に来る子は、まずいない。

でもクラスの図書委員である京子には、ここはいちばん心の休まる特別な場所だった。


誰もいないひんやりしたテーブルに顔を突っ伏して、ふう、と大きな溜息をついた。

ひとりになった安堵感で、少しだけ落ち着いた。


立ち上がった京子は、頼りない足取りだが迷わずに、詩集と書いてあるコーナーに行った。


金子みすゞとかかれた詩集を手にとると、席に戻りぱらぱらとめくった。


花のたましい、と題されたページで手を止め、ゆっくりと背筋を伸ばすと、京子はそのなかの一節を声に出して読み始めた。


「ち…」

ひと言、声を出したあと、コホンと小さく咳払いをした。




 散ったお花のたましいは、
 

 み仏さまの花ぞのに、
 

 ひとつ残らず生まれるの。

 

 だってお花はやさしくて、
 

 おてんとさまが呼ぶときに、
 

 ぱっとひらいて、ほほえんで、
 

 蝶々にあまい蜜をやり、
 

 人にゃ匂いををみなくれて、

 

 風がおいでとよぶときに、
 

 やはりすなおについてゆき、

 

 なきがらさえも、ままごとの
 

 御飯になってくれるから。




ほとんど、どもることなく終わりまで読んだ。


そう。 ひとりで朗読すると、どもらないことも多かった。

すでに暗誦できるくらい何度も読んでいて、京子はすらすらと読むことができた。


なのに、なんで…、人前やとひっかかるんやろか。

やっぱ、病気なんやろな。 わたし、喋りができない病気や。


幼少時から何度も繰返してきた自分との問答を心に押し込めると、京子は詩集の続きをパラパラとめくった。


ようやく心に平和が戻ってきた。


いつもこうして、何か嫌なことを忘れるために、あるいは何かを諦めるために、本の中に逃げてきたのだ。

詩や物語のなかには、決して動かない美しい風景と世界があった。


                              

                         

                               出典:矢崎節夫「みすずコスモス」より