午前3時を回ってくると、だんだんともう諦めて何か暇を潰して夜明けを待とうという気分になってきます。

白黒映画の世界は終始白夜のようで、妙な翳りがあって、そういう時ちょうど良いと思うのです。

 

実は、ついこないだの明け方にこの原作を読んで夜白んだのですが、またやりました。こりない。

 

 

本作の監督は『エデンの東』のエリア・カザン。『エデン』より3年前の作品になります。

 

主演のブランチ役は、『風と共に去りぬ』から約10年を経たヴィヴィアン・リー。

ヴィヴィアン・リーは実際に双極性障害を持っており、本当に役に乗っ取られたような狂い方を見せます。

 

誕生日の後でミッチがやってくる、カーテンのひらめき方がたいへん芸術的なシーンがあります。外は雷で、いかにもホラーナイトな様相。

ここのミッチを追い出す時のブランチが、ナイトガウンのシフォンの裾も相まってディメンターみたいに見える。

 

(ミッチの腹筋突くところはめっちゃ可愛いけどね。)

 

 

そしてジャイアニズムと下品と野蛮を煮詰めたような最低のクズ、ミッチを『ゴッド・ファーザー』のアーロン・ブランドがものすごいクオリティで実現しています。

 

このミッチはブランチへの圧のかけ方がロードローラー並みにえぐい。

癇癪起こすたびに「やめてくれーーー!!!」とムンクになりたくなります(叫びつつ耳を塞ぐ)。

 

それに対し、ヴィヴィアン・リーは“魔法遣いが妖精の粉を振りまいて、三日三晩月光に浴びせた薔薇の朝露で風呂に入った”みたいなネジの飛び方でやり返すので、もう辺り一面焼け野原。

向こう10年ぺんぺん草一本生えないということになっています(心象風景)。

 

 

 

いい意味で最悪だったのがブランチの誕生日のシーン。

 

最悪だなと思ったポイントを挙げてみますが、熟練の主婦並みのポイントの稼ぎ方にご注目ください。

 

 

ステラの豚発言にいきなり皿を叩き割るスタンリー にまず1ポイント。

「俺のやり方で片付けたぞ」

行動はやばいのにその後の台詞は声を荒げていないことに追加1ポイント。

締めにカップを壁に投げつける。1ポイント。

 

なるべく直接的にぶつけないようにしてるのが逆に怖い…。

この一連の間、ずっとチキン?をもぐもぐしているのもポイントが高いです。

 

 

さらに、ティーカップを両手で持ったままのブランチ(このシーン落ち着かないとお茶のみがち)、「そっちも片付けようか」で皿を抑えるステラの手が素っぽいところにボーナスポイントが加算されています。

 

 

まだまだ続く恐怖の第2ラウンド、

 

ついに我慢の限界がきたブランチがスタンリーに“ポーラック”と言ってしまう。→これによりスタンリーのコンプレックス・スイッチ🔛

 

(“ポーラック”というのはポーランド人に対する蔑称です。

当時貧しく出稼ぎに来ていた東欧系の人たちは差別されていました。)

 

電話で場が落ち着きそうかと思いきや、トドメのバスチケットをプレゼント→ブランチKO

 

ブランチを庇ったステラに対しても身分差コンプレックス爆発。

「初めて会った時俺を庶民だと思っただろ?」

 

それにしてもこの映画、服が破れすぎなところが面白い。

 

この後ステラが破水するのですが、ありがちな股から水パシャとかじゃない演技で表現していたのが凄い良かったです。

というかこのはちゃめちゃなシーンを破水で終わらせるのが凄い。

 

 

 

脚本のテネシー・ウィリアムズという人はアメリカの光にできた影を混乱の姿のまま書き取った戯曲家です。

姉が精神病者だったため、彼の作品にはしばしばそのような特徴を持ったキャラクターが登場します。

 

戯曲では基本的に家の周りで完結するので、とても閉塞感があり、より余所者のブランチに対してのスタンリーに感情移入しやすいように思いました。

 

また、ステラにも結末に大きな違いがあります。

 

戯曲と映画では、まず冒頭が違っていることもお知らせしておきたいです。

戯曲では「極楽」にブランチがやってくるという視点で描かれていて、とても暗示的なこんな台詞から始まります。

 

 

 

欲望という名の電車に乗って、墓場に乗り換えて、極楽で降りろと言われたのだけど

 

ここが極楽よ

 

じゃあ、きっと……間違えたのね

 

 

 
 
 
 
エリア・カザン監督『欲望という名の電車』(1951年、アメリカ)
2020/4/29 鑑賞