赤薔薇【ずっと君だけを】より赤薔薇
 
クローバークローバークローバークローバークローバー
 
待ち合わせのホテルの一室で、夫のシンの後姿を見たチェギョンは、小走りに彼に近寄りその背中に抱き付いた。

「シン君」
「早かったね」
「だって、シンクンに早く会いたかった」
夫が身をよじりながら、チェギョンを胸に抱いてくれた。
「朝、玄関で別れただけだろう?」
「うぅぅんっ、それでも会いたいの。意地悪言わないで」
チェギョンが口を尖らすと、シンが優しくキスをしてくれた。

「早く会いたくて急いで支度したのよ。バーバラ夫人が『まだ早すぎますよ』ってストップかけたから、30分も遅くなったわ」
家政婦が留めなかったら、あと30分は前に到着していたのに。
「シン君はいつ来たの?」
「5分ぐらい前だね」
「じゃあ、5分間のキスして」
チェギョンはシンの腕を掴んでねだった。
「本当だったら、もう5分長くシン君といられたんだもん。いいでしょ」
「その提案は素晴らしいよ」
シンの大きな手はチェギョンの腰に置かれている。彼の手の平から熱がじわじわと服の布地を通して伝わってくる気がする。

身を屈めた彼が、ねっとりと唇を重ねてきた。チェギョンは彼の腕をさすりながら撫で上げ、首に抱き付いた。絡み合う舌は、いつの間に二人で一体となり、頭の奥がじんじんする。
「チェギョン…このドアの向こうのベッドに、君を連れて行きたいぐらいだ」
重なった唇で彼が囁いた。
「じゃあ、連れて行って」
本当にそうしてほしい。キスをしたままシンが微笑んだのが分かった。

「だめだよ。今は時間がないからね」
「うぅぅぅんっ、ケチ」
彼の会社が手掛けたビルが開業した記念のパーティ。一族揃って出席するのは当然のこと。頭では分かっているけれども、体と心は“二人きりでいたい”と願う。
「その代わり、夜はチェギョンに満足してもらえるように、努力しよう」
シンが一層低く呟いた。チェギョンの背中にゾクリとした期待が走る。
「うん?」
彼が余裕の顔でチェギョンを見た。まるで“チェギョンの考えていることは全てわかっているよ”と、言わんばかりに。
年上の彼はいつもこうだ。自分の心などお見通しなのだから。
「シン君って、そういう人だったの?」
5分間のキスとたった一言の囁きだけで、彼女の体に火が付いている。
「どういう人だ?」
「―――わかってるくせに」
チェギョンはシンの首筋にキスをした。欲望を感じているときに、彼女が彼に送るサイン。
シンが男らしい声で笑った。
大きな手が頭を押さえ撫でてくれる。
「君の夫は、“そういう人”ってことだよ、チェギョン」
「このままバターみたいにグニャグニャ溶けちゃいそう」
「それは困るな。チェギョンが溶けたら僕はどうしたらいい?」
必死に床をはいずりまわる彼が浮かんできて、チェギョンは笑った。





「それってちょっと面白いかも」
妻が楽しそうに声をあげて笑っている。昔からそうだった。屈託のない笑い声は、シンを幸せにしてくれた。開け放った窓から、チェギョンとユルの笑い声が聞こえると、手をとめて耳を澄ましていたものだ。

「さあ、行こう」
シンはチェギョンのおくれ毛を耳にかけ、それからかすめるようなキスをすると
「その前に、リップを付け直した方がいいな」
耳元で囁き、小さな耳たぶを噛んだ。
「あっ、そうね!」
パタパタとバスルームへ駆け込んでいった愛おしい背中を見つめ、シンはソファの背にもたれた。



妻は可愛らしい。
弟のユルの妻アリアナは、色気のある女性だ。弟の妻とはいえ、義理の姉にあたるチェギョンのほうが年下で、妹のように見えるだろう。
女性との関係が盛んだったユルの心を掴んだ女性らしく、しっかり者で頭も切れるアリアナのことをシンは好きだ。
よくぞ彼女を選んだ、と弟を褒めてやりたい。

さっきチラリとあった時、アリアナは真っ赤なドレスを着ていた。とても似合っていた。

けれども、100人中99人の男がアリアナの色気に屈しても、シンは違う。
チェギョンだ。誰よりもチェギョンに色気を感じるのだから。
ツートンのワンピース。黒い光沢のあるトップスと、白いふわりと広がったミモレ丈のスカート。細い腕にはシンが贈ったプラチナのバングルをはめている。大きめのイヤリングは、ダイヤとオニキス。シルバーの編み上げ式のパンプスも、彼が妻に贈った。

「シン君、来て」
チェギョンに呼ばれてバスルームへ行くと、
「どうしたんだ?」
「いいから」
彼女に腕を引かれた。
「ここに立って」
鏡張りのドアの前に立たされた。
彼女が彼の胸に背をもたれさせ、二人で鏡の中の自分たちを見た。チェギョンの腹の前で手を組んだ彼は、彼女の耳の後ろにキスをした。

「私……シン・バンブスの妻に見える?」
ウットリと目を閉じて彼の唇を感じていたような彼女が、ポツンとこぼした。
「なんだって?」
「こうして二人で並んでいても、ちゃんと妻と夫に見える?」
「見えるに決まってるよ。だいたい、今日パーティに来る連中は、僕たちの結婚式にだって参列してるだろう」
チェギョンが体の向きを変え、彼をじっと見上げてきた。
「ううん、違うの。私たちが夫婦だって知らない人が見ても、ちゃんと夫婦に見える?」
不安そうに揺れるブルーの瞳。
「チェギョンの夫は僕だけだよ。僕の妻もチェギョンだけだ」
「でも…兄妹みたいに見えるかもしれないもん」
寂しそうに長い睫毛が伏せられた。
「兄妹に見えてもいいよ」
「えっ」
弾かれたように彼女が顔を上げた。シンはゆったりと微笑んだ。

「僕が愛してるのはチェギョンだけだ。僕がそのことを知っている。―――それで十分だよ。違う?」
「シン君……ううんっ、違わないっ」
ピョコンと抱き付いてきた妻の細い腰を掴んだ。彼女がそんなことを気にしているとは思いもよらなかった。
「ずっと僕の隣に居ればいい」
「うん」
「僕たちは、いつだって二人だよ」
「うん…」
妻の声が少し鼻声に聞こえたのは、シンの空耳だったのだろうか。





*****




ふぅぅ

チェギョンは会場の隅っこで、ため息をついた。華やかな場所は嫌いではない。父の仕事の関係で、18歳を過ぎたころから頻繁にこうした会に出席していた。

ただ一つだけ、違うことがある。
チェギョンに愛する人がいるということだ。

広いホールの中、似たような黒っぽいスーツを着た男性たちの中に、ひとりだけ輝いている彼がいる。シンの姿を探すことばかりに神経が向いてしまい、今までのように無邪気に知り合いとの会話に没頭できない。気が付けばシンの姿を探し、彼の大きな手を求めて会場中を歩いている。
やっと彼の隣にたどり着いても、ものの数分でそれぞれが別の知り合いに声を掛けられ、気が付けばまた二人は離れている。



「チェギョンじゃないか。こんなところで一休みか?」
「ユル君、アリアナ」
「僕たちも一休みだ。仲間に入れてくれ」
ユルが疲れ切ったような顔でいった。

「お腹もいっぱいなのに、知り合いに声を掛けられると、またワインの1杯でもお付き合いしないとダメだもん」
会場の片方は、会食のテーブル席になっている。夫の席の隣であれこれとおしゃべりをしながら、料理を味わっていた時までは良かった。
その後、彼はあちこちから声がかかってしまう。
「本当ね」
赤いドレスのアリアナが肩をすぼめた。

「―――いいな、アリアナは」
「あら、どうして?」
「ユル君と一緒に居られるんだもん」
アリアナはユルの秘書だった。結婚した今は、全く別の事業に携わっているけれど、そもそも共通の仕事上の知り合いが多い。その証拠に、二人に声をかける人たちはユルとアリアナと三人で会話をしている。


それに比べて―――。


「兄さんと一緒にいればいいだろ?」
ユルが“どうってことのない”ように言うけれども、それはチェギョンにとっては重要なこと。
「明らかに、シン君だけに向かって話をしている人と一緒に?」
途中まではにこやかに隣に立っていられるけれども、だんだん込み入った会話になると飽きて来てしまう。
「そんな人とおしゃべりするなら、微分積分を解いた方がましね」
チェギョンが数学が苦手だと知っているユルが笑った。
「そんなにつまらないのか?」
チェギョンは肩をすぼめて見せた。
「じゃあ、私たちと3人でいましょう」
「うん…でも」
振り返って彼の姿を探す。



「あの人、誰?」
シンの肩を叩きながら、なにやら親し気に顔を近づけて話をする女性がいた。
「どの人?……ああ、ポピー・ルイーズね」
「アリアナも知ってる人?」
「―――建築会社のオーナーの娘だ」
ユルが口にした会社は、チェギョンも聞いたことがあった。
「随分、仲がよさそう」
シンの体にすり寄らんばかりの近さで、相手の女性は首をかしげて彼を見ている。

「美人ね」
「そうね。でも、チェギョンのほうが可愛いわ」
「ありがとう」
アリアナの気持ちが嬉しい。きっと嫉妬しているチェギョンの心を軽くさせようと、言ってくれたのだろう。


「人から聞かされるより、いいと思うから」
「なぁに?」
「ユル、やめて」
アリアナがユルの腕を掴み頭を振っている。どうしたの?

「ねじ曲がった噂を聞くより、事実を知っていた方がいい」
「ユル君?」
ユルがチェギョンを見た。珍しく真剣な顔で。

「ポピー・ルイーズは、大学時代、兄さんの恋人だったんだ」